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壊れゆくブレイン(57)

2012年04月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(57)

 広美は学校の旅行に行って、家にはいなかった。いまは沖縄にいる。ぼくは地元にあるあまり大きくもない空港のことを考えていた。そして、自分が若かったときに行ったアメリカの西海岸のことに思いは移っていった。そこは巨大な町をすっぽりと包み込んでしまうような空港だった。ぼくは雪代とそこにいる。まだ、ぼくも学生だった。その空港内で裕紀に似たひとを見かける。あとで、再会して裕紀本人だったことを知った。彼女は、遊びにきていた両親とそこで会い、楽しい思い出を作るはずだった。

 しかし、彼女の両親は現地で事故にあった。そのことも後で知る。ぼくはあそこで例えばトイレから出てきて偶然に近い距離で声をかけざるを得ない状況として逢ったとしたらとか、小さな店でコーヒーを買う順番を待つ者同士で再会していたらとかと考えていた。もし、そうなれば人生の歯車がどこかで入れ代わり、彼女の両親は元気でありつづけられるのだと思おうとした。

 だが、そうなるとぼくと裕紀は東京タワーの近くの店である朝、会うことができなくなるのかもしれない。彼女はシアトルに留まり続けたのかもしれない。そして、その両親はぼくと裕紀が結婚することを許さないのだろう。そのはかない可能性を立脚点としてぼくらは生きていたのだ。

 それから、本人もいなくなった。あの空港で若々しく歩く彼女の姿が不思議と思い出されてならなかった。いまの瞬間はどの思い出より、その声をかけられなかった裕紀についていっそう未練があった。

 昼休みになって外にでた。食事を済ませても時間があったので、本屋に立ち寄った。沖縄のガイドブックが目に付いたので指で棚から引っ張り、ページを開いた。そこには沖縄の澄んだスープの色のそばがあった。となりのページにはハイビスカスがあった。何ページかめくると、いつものようなきれいな海岸線とホテルがあった。広美もそのような景色を見ていることなのだろう。

 となりの棚には外国のガイドブックもあった。アメリカ西海岸と背表紙に印字されているものを交換に取り出した。名物の橋。水族館やアメリカの軍隊の説明もあった。脅威を取り除くものがある場所では脅威となり、平和をつくるものが、平和を脅かした。ぼくにって、平和な状況を根底から覆してしまった裕紀の死というものがなぜかそのガイドブックとつながった。

「わたしたちも、どこかに行きたくなるね?」と、仕事が終わり、ひさびさにふたりだけで食事をしている最中に雪代は言った。「いままでで、どこが一番、良かった?」
「きょう、アメリカの西海岸について考えていた」
「行ったね。そういえば」
「雪代は?」
「わたし、暖かいところ。バリ島が良かった」
「あの時の写真あるのかな?」
「押入れの奥のどっかにあると思うよ」雪代はその場所を指差しただけだった。「広美にもたくさん思い出を作ってもらいたい」
「雪代は仕事でいろいろなところに行けたから」

「でも、仕事は仕事だよ。そんなに時間にゆとりもなかったから」
「留学させるとか?」ぼくは無意識にそう言ったが、それこそが裕紀が通った道だった。
「あの子みたいに?」
「別にそういう意味じゃないよ」
「彼女のこと言ってもいいよ。ひろし君の何年間かを幸せにしてくれていたんだから。そういう貴重な時期のことなら」
「そうするよ」
「忘れてもいいし、忘れなくてもいい。おかしいね。辛いことは忘れてっていいたかった」

 しかし、辛いことこそ残るような気もした。こころの奥に。いや、それも違うのだろうか、あの若く元気がみなぎっていた空港での裕紀がぼくの思い出の最前列にきょうはいたのだ。ぼくも島本さんのことにもう拘りはなかった。雪代がもしかしたら大切な甘美な思い出を胸に秘めているのかもしれないが、もう現実に踏み込んできてその場を荒らすことはできないのだ。それが過去というものであり、生きていないという事実のようだった。

「もう少し時間が経てば、いろいろなことは変わるかもしれない」
「ひろし君ももう傷つかない」彼女は、ワインのボトルを持ちながらそう言った。「おかわりする?」
「うん」雪代はボトルをまたテーブルに置く。その空になった手の平はぼくの手の甲に置かれた。そのぬくもりこそが生きている証しのようだった。いくら、思い出が鮮明ではっきりとしていたとしても。

「いまごろ、友だちと話しているのかな。お風呂に入って寝るのかな」
「枕を投げたり?」
「いまは、もうそういうことしないんじゃない。そんな大部屋のようなところには泊まらないんじゃないの」
「そうなのか」ぼくは合宿で泊まった旅館のようなものを思い出していた。身体の大きなものが集まって、みなで入浴した。ご飯を勢い良くかき込んで、泥のように眠った。その泥のような眠りのなかに裕紀や雪代が忍び込んできた。朝、快適に目覚め、ぼくはその眠りのなかでしか会うことのできない彼女と、また地元で会うことを望んでいた。そして、一日中駆けずり回り、何日か経って、目の前に裕紀がいた。学校の帰りにぼくは合宿の思い出を話す。またあのような機会が訪れればよいのにと思ってみるものの、もう結局、それは消滅したのだ。どんな強い望みがあったとしても。

「じゃあ、わたしたちもパジャマに着替えて、枕を投げる?」
「その後、タックルする」ぼくらは娘がいないとただ無邪気になった。


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