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壊れゆくブレイン(56)

2012年04月19日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(56)

 休日だったが、広美が制服姿で帰宅した。ぼくは朝寝坊をしてその格好で出掛けたことを知らなかった。カバンを無造作に床に置き、ソファに身体をこれまた無造作にもたれかけさせた。
「疲れた」
「学校?」
「今日は、ボランティアで子どもたちを遠足に連れて行った」
「そんなこともするんだ」

「するんだよ、最近の学校は」ぼくは冷蔵庫から缶ビールを出した。雪代は仕事からまだ戻ってこない。ついでにパックのジュースをグラスに注ぎ、広美が座っている前に置いた。「ありがとう」
「子どもはじっとしてないから気をつかったでしょう」
「うん」彼女はグラスの半分ぐらいまで一気に飲み干す。「ねえ。ゆり江さんていうひと知ってる?」
「誰?」もう一度ぼくは名前を訊き直す。だが、そうしなくてもぼくはその名前に気付いていた。しかし、広美の口からその名前を聞くとは思っていなかった。
「おばさんの同級生で、ひろし君のことも知っていた」ぼくの妹のことと彼女はゆり江を結びつけた。その子どもがきょうの遠足に参加していたそうだ。遠足といってもそう遠くまでは行かない。近隣のひとびとと近隣の郊外の場所へ。おにぎりやサンドイッチを食べて、水筒のなかのものを飲んで。

「彼女には弟がいて、ぼくはサッカーも教えていた」
「そうなんだ。とっても可愛くて、とっても優しいひとだった」
「40も過ぎているひとに相応しい言葉じゃないと思ってたけど」
「わたしの女性観は、ママでできていると思うんだけど、いろいろなひとと知り合うようになって、いろいろな女性らしさがあるんだなって思った」
「雪代は?」
「ひろし君も知ってるでしょう。いつも、しっかりとして、きりっとして、意志的で」彼女はそこでため息にも似た、また憧れにも似た吐息をする。「ゆり江さんて正反対だった。わたしたちよりある面では子どもっぽく、可愛くて」
「どっちがいい?」

「どっちもいい。別物だから。個性だから」また、グラスに彼女は口をつける。それで中味は空になった。
 ぼくは遠い過去に思いを馳せる。ぼくには雪代がいた。広美がいったとおり彼女は自分の願いを叶えるために努力を惜しまないタイプだった。その成長の過程を苦にもしなかった。それすらも楽しんでいた。ぼくはそのような彼女に惹かれ、また反作用的にそのようなものを持たないゆり江という子を知るようになる。親しくなるというのは自分の情が移ることなのだろう。ぼくらは境界を越えた。だが、それはどこにも行き場のないものだった。彼女は自分の憧れの存在であった裕紀をふった男を許さなかった。それを動機としてぼくに近付いてきた。だが、結果としては、若いこころをもつ男女ふたりが意思を交わすようになれば、憎しみなど直ぐに消え、好意的な感情が芽生えていくものだろう。

 ゆり江は、力強くなかった。ときには弱く思えた。だが、それはぼくにとって居心地のよい瞬間の連続でもあったのだ。その彼女が母になり、自分の子どもがぼくと雪代の娘と遊ぶということになるなど考えてもいなかっただろう。もちろん、ぼくも考えていなかった。

「ああいうひとが前にあらわれて健康な男の子は好きにならない? ねえ、ならない方がおかしいよね」そのきわどい発言は答えを求めているのか分からなかった。
「普通はなるけど、順番もあるし。誰かの彼女には手をださないという暗黙のルールがあるからね」
「ひろし君の口からそういう真っ当な答えが返ってくるんだ」
「そうだよ。ラグビーでちょっと有名になってしまったから、人目も多いし」

「有名人はつらいか」それから彼女は数人の子どもたちの話をした。遊び方や、誰かが勢いよく転んだこと。誰かは泣き、誰かと誰かは喧嘩をした。そして、むりやり仲直りをさせられ、いつの間にか喧嘩したことも忘れ、また遊んでいたことなど。

「どうだった、広美。きょうは?」雪代がドアを開けた途端にたずねた。
「楽しかったよ、疲れたけど」
「可愛かった?」
「まあね」

「まゆみちゃんの子ども、あの子、大きくなったかな」と雪代は独り言のように言った。ぼくは中絶を断固阻止したが、その後は無関係でいた。そういう自分の中途半端な立場を悲しく、かつ不甲斐なく思っていた。口ではなんとでも言えるのだ。その後の長い間の成長の手間は彼女の問題でもあるのだ。しかし、その子は産まれ、ぼくらの話題の端々にのった。それが正解といえば正解のようでもあった。誰かの気持ちの一部を占有することが。

 広美はなぜかゆり江の話題をそれ以降は出さなかった。意図的なのか無意識なのか分からない。雪代は意外と嫉妬深かったことを知ってのためか。彼女のプライドの高さが、自分の立錐の地の狭さに依存しているようだった。誰も追随を許さないというように。

 それもこれも個性だった。ぼくにも個性があり、雪代にもあり、広美の種は日々作られつつあった。まだ柔らかい粘土のようなもので、どのようにも転がる余地があった。だが、今日のぼくはゆり江のことを常より深く考えた。そして、少なからず思い出の分量として表面には出てこないが、彼女と過ごした日々や時間が尊く、ぼくの胸の奥にしまわれていることを知った。その良さの一端を広美も知ってくれたということがなぜだか嬉しかった。

「わたしは、雪代さんから彼を奪えなかった」と夢のなかでゆり江は広美に告げていた。それぐらいぼくの影響下の深くにもたどりついているようだった。


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