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物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-43

2014年08月03日 | 11年目の縦軸
38歳-43

 もし仮に、マーケットの精肉売り場の主任が、毎日、折り目のきちんとついた卸し立てのエプロンをしていたらどうだろう。閉店間際になっても。清潔なひとだという印象は与えるが、このひとが肉の良し悪しに精通しているとは思えない。事務作業としての長所はいったん無視して。ぼくらは、ある種の風貌をもとに数々の判断をくだしているのだ。

 では、恋の物語を書くにふさわしい容貌とは? そんなものはない。ただ文字だけで表現すればいいだけだ。

 彼らは、その後、幸せに暮らした。その結論が書けたら、どんなに良かっただろう。ありふれており、陳腐でありながらもどんなに簡単だっただろう。ぼくは終わりにする方法が分からない。設計図もなく、ただ何となく壁の落書きのようにスペースがなくなることを望んでいた。

 携帯電話に番号がのこっている。アドレスもある。この数字やアルファベットが彼女に通じる記号だった。もう意味をなさない。油断してかけてしまう心配もあった。ダイエット中なのに、甘いものの誘惑に負けるように。

 ぼくはその番号などを消す。さようなら、数年間の喜怒哀楽。

 反対にこころにスイッチもない。停電もない。再起動もない。継続とゆるやかな忘却に身を任せるしかない。だが、ゆるやかというおぼろげなものにすべてを任せきるほど悠長ですむものでもない。ぼくは閉店後に汚れた床を掃除するように水を撒き、デッキブラシで強くこすった。床にはこびりついた汚れがあった。ぼくのこころのなかにも、しがみついて容易に離れない記憶の数々がのこっていた。

 絵美が生まれた日もある。ぼくらが出会った日。それは明確ではない。ぼくらは仕事の関係で何度か電話で用件をやりとりして、あるコンサートでその声の持ち主を知った。ぼくはその日の音楽を思い出そうとするが、題名は出てこない。クラシックの曲名をそれぞれ言えるほど、ぼくは愛好家でもない。しかし、その軽やかな響きと経験はこころにきちんとのこっていた。

 ぼくは良い瞬間ばかりを思い出していた。悪いこと、辛いことは人間の生命の存在や維持に対して、不必要なグループなのだ。だが、それらを忘れてしまったら、ぼくのこの長々した物語の根底の砂利のようなものも、すべてさらって土手で干上がってしまうだろう。それも不愉快だ。ぼくの思い出は良い面だけで構成されていない。どら焼きの皮とあんこの両方で命名に値するものとなるのだ。

 中身には、絵美との良い記憶たちが眠っている。

 彼女が選んだ別の男性。ぼくは憎しみももてない。ほんとうのところは、あるのだろうが表面だって主張してこない。ぼくの嫉妬は引っ込み思案になった。それを全面に出して戦うことは危険な賭けなのだ。これも臆病を土台にする生存の一環の形なのだろう。

 結局、恋なんていう感情にぼくは精通しない。これが最後の機会でもあったように思える。九回の裏でサヨナラ負け。ぼくに見合っている。延長も、再試合もない。汚れたユニフォームはすがすがしい勝負をした姿だ。負けチームがいなければ、そもそも試合も成り立たない。

 すると無駄な分け方だが、三人の女性は三回ずつを受け持ったと仮定する。序盤戦。中盤戦。結末。ぼくは一打席目で特大の場外ホームランを打たれる。ヒットもこわくなり敬遠に近いボールでごまかす。その恐怖を克服して中盤は意のままに運べそうだったが、また盗塁の連続で試合も根気もかき乱される。ようやっと、同点に持ち直したが、また最後には逆転。だが、そこそこ試合は楽しめた。オッズもなく、観客もいないがぼくの試合としては充分ありがたいものだった。

 アンコールを拒絶する歌手などいない。それを含んでのショーなのだ。しかし、ぼくはショーの舞台に立っているわけでもない。照明係はさっさと役目を終え、主電源も切ってしまった。あとは深夜の勤務の警備のひとがアリ一匹通さないように監視の目を働かせている。ぼくの誰かを愛したい気持ちも終わりだ。さようなら、紆余曲折の歴史。

 ぼくも自分の荷物を抱え、門をでる。ビルにいた最後の人間らしい。警備の係りは小さな窓から顔を出して、にこやかにほほえむ。彼の時間はこれからなのだ。後ろのテーブルには使い込まれたポットがあり、おいしそうなにおいが横のカップから湯気とともに立ち上がっていた。

 ぼくは静かな夜の街を歩く。コンサートの残響のようなものを耳にする。それは蜃気楼にも似たものだ。ぼく自身も自分の思い出の確保をむずかしく感じていた。あれは確かにぼくのものでありながら、一部かあるいはもっと増えていくのかもしれないが、少しずつぼくの手からこぼれていく。ぼくの恋する機能は終了した。これから、なにに注意を働かせるのだろう。成人病。三大疾病。高血圧。

 これは恋の物語だった。ぼくの人生をかけた登山のようなものだった。雪崩に遭い、もう終わりだ。もう少しまともな自分の人生もどこかにあり、もう少し賢く美人なひともいたかもしれない。ひとに責任を押し付けるのは甘美である。いつでも、爽快であった。彼女たちが優れていて、ぼくは例えようもなく恵まれていたことは、自分がいちばん知っていた。それを証明したいと思って書いたが、もう文を目で追うなどという行為は、明らかに終わった形態なのだ。ゲームで誰かを打ちまくった方が爽快な気分になる。ぼくも彼女たちを敵とみなして、そうしたゲームでも作ることにしよう。


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