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11年目の縦軸 16歳-43

2014年08月01日 | 11年目の縦軸
16歳-43

 忘れることを望んで、実際にそれが叶うと忘れようと努力していた事実すらも過去のことになってしまっていた。だが、もうぼくの年齢は二十二だか、三になっていた。右も左も分からないということを肯定的に崇めたかったが、失意ということだけは確実に、寸分違わぬサイズで知っていた。基本構造は無色で無害なトンネルになるべき期間を、楽しさでカラフルに彩色して、快活に、笑いながら暮らすこともできただろうが、こころの奥では小さな雨漏りがあった。闇という表現とも違うし、漆黒という言葉では意味合いがダーク過ぎた。そして、薄い濃度だったが害も含まれていた。

 だが、そうしなかった。笑いは持続しないし、そうできるとも思っていなかった。時間だけがゆっくりと、のろのろと、のんびりと過ぎていった。ゆっくりだと思っていたが実際は早くもあった。ぼくは二十代の入口さえも忘れてしまっていた。

 普通のひとはこの辺りで大学を出て、社会の一員として登場するのだろう。自分は夢見るということもできず、登場という華々しさも手放していた。だが、恨みもない。自分にはこの環境という衣服がぴったりと合っていた。

 落ちなかったシミを何度も洗濯した結果、衣類はヨレヨレに、ボロボロになった。ぼくはその大切な服をやっと処分する勇気を得た。いや、むりやりぼくの何かが引き剥がそうとしたのだろう。ぼくはまた裸である。新しい服を見つけなければならない。

 この代償として、ぼくは批判的になり、虚無的な仮面を身に着けさせられた。世の中には順調など一切なく、すべて終わるのだという結論に通じる。その思いは継続的な努力や訓練を省いた。一瞬だけを大事にして、同様に刹那的になる。だが、一瞬の連続が未来だと考えれば、どちらにしろ同じことになった。

 ぼくは誰かを好きになるという若者の特権を軽んじ、そのエネルギーは本や映画に向かった。山ほどの本を読み、無数の映画を堪能した。賢さや知識をアピールする存在はなく、ただ自分が満足するかどうかが大問題になった。いっしょに共通体験を通じて育む関係もなく、ただ自分のこころに記憶と快楽がストックされるだけになった。

 ぼくは何になりたかったのだろう。金儲けを念頭に置くことはなかった。裕福というのは幸福と連動させることをぼくの脳は困難に感じる。唯一の幸福の感覚は、あの彼女と過ごしたごく短い期間のことだった。あのときにぼくは裕福でもないのだから、幸福とお金を結びつけることは無意味になった。

 何になるという考え自体も甘いものだ。みな日々の仕事に忙殺され、生活費を稼ぎ、車を買って海にサーフィンに行ったり、ナンパをしていた。バイクで違う場所を走ることも爽快さをもたらすのだろうが、ぼくには不向きだった。ぼくはひとりになれる状況を欲していた。本に顔をうずめ、暗闇で映画を観ていた。予算はかなり少なくて済む。金がたまればジャズのCDやレコードで簡単に散在した。

 本を書きたいと思う。にせものではない本物の書物を目指そうと思う。親の威光や、誰かのコネなどがまったく介在しない世界に足を踏み入れたいと思う。ぼくは遠回りをする。近道など知らない。近道は逃げと同義語だった。ぼくは彼女を忘れるために近道で誰かを見つけたりはしなかった。だから、できるのだ。

 しかし、芽が出ない。種も種子も見つけられない。ぼくは世間に足を踏み出す。すべてを忘れて、普通に金を稼ぎ、趣味で得た興味を参考に、収集するチームに加わろうと思う。

 これがぼくになった。自分の周囲に薄い壁を張り巡らせ、そこの住人になった。ライブでいっしょにはしゃいでくれる可愛い彼女というものもいないが、ぼくの聴きたい音楽を楽しんでくれるひともそもそもいなかった。オーネット・コールマンに誰が夢中になれるだろう。

 恋の物語など書く資格など本当はないのかもしれない。実行者は、書く時間があるぐらいなら、もっと別のことに集中して時間を割いているのだろう。そして、数人の子どもの父になり、ワゴンやワンボックスのような車に乗り換える。

 恋の絶頂も物語になりづらかった。遊園地できょうも楽しんだ。ドライブで軽井沢に行く。ぼくが考える物語はもっと熾烈であり、別物だった。克服と喪失と再生を目指す生々しい作業の履歴なのだ。

 ぼくはすべてを忘れる。空調の効いた乾いた部屋で古いジャズを聴く。酒の味を覚える。自慢できることを他人に、恋する相手にも披露する機会がない。いつか、その日が来るのかもしれない。そのときまで、このひとりの時間を楽しもうと決意する。

 白い紙に文字を埋め尽くすこともやめた。世の中は一部の資産家のうちで廻っているに過ぎないのだ。みな、そこから利益がこぼれないように頑張り合う排他的な世界なのだ。バド・パウエルもレスター・ヤングもその世界にはいない。だから、ぼくの住む場所でもない。ぼくは誰からも探されないようにしよう。存在を暴かれないようにしよう。認められないことを中心にして生きよう。淋しくないとも言い切れないが、これこそがぼくなのだ。しかし、このぼくに若さも戻らないが、老いも訪れないと考えるぐらいに、愚かで無知でもあった。


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