爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

11年目の縦軸 16歳-44

2014年08月04日 | 11年目の縦軸
16歳-44

 ぼくは自分の経験を手放そうと必死になって書き、そのために辛さを再燃させて手繰り寄せ、結果として、別の形の悲しさを自分のなかに引き寄せてあらためて刻んだ。ある種のものは手放しながらも、釣り合いの取れた別の悲しみと交換した。残高のつじつまは終いには合い、結局は出納をしただけで、利息も損失もなくいっしょのようでもあった。元の木阿弥という表現をぼくは一度も使ったことがないながらも、いま鮮明に思い出していた。もしくは、過去の傷の陰干しをしているようだった。漁師が護岸で破れた網をつくろうようにして。

 だが、しなければいけない工程なのだったのだろう。おいしいフォンドボーを作る過程のように。

 では、ぼくはそのソースの元でいったい何を作らなければならないのだろう。仕上がるのは、どのようなスープだろう。分からない。完全なるレシピなどぼくの手元にはない。

 ぼくはぐるぐると中味をかき回し、煮詰まっていく様子を見ていた。素材の固さはもうとっくにない。原型など二十年前に小さく切り刻んでいたのだ。具材は無造作に放り込まれ、その結果、いまのぼくができる。違うバージョンのぼくなど想像することもできない。とくに何があっても、この自分にしかならなかったのだろう。そうではなければ歴史家も困ることもないが、ぼく自身が困る。困るという意味合いとも別で、納得がいかないという方が妥当だろう。では、どこを納得するのか。きもちのどこを自分で納めるのか。何も分からない。

 回す作業も終わりだ。味見をして最終の判断をする。皿に盛られ、客前に運ばれる。はじめての料理。失敗すれば、二度と作られない味つけ。

 ひとは、現実の世界で再現できない料理をずっと作りつづけている。やみくもに。材料も調理器具も一流品だけを選べる訳でもない。親か、その近辺のひとが用意したもので賄うしかない。ぼくは決してキャビアではない。豆腐かゴボウぐらいのものだ。これで作れるものなど限られている。ならば、良くやったと宣言しても過大評価にはならないだろう。素材がもつ実力程度には、発揮できたのだ。その味を喜んでくれた数人がいたのだ。

 はじめの彼女。

 ぼくは地区センターのようなところで、見知らぬ子どもが描いた母の絵を目にする。描いた方も、肖像になった女性もぼくは知らない。その上、当人がここにいてもぼくは発見できないはずだ。子どもの画力などこの程度しか備わっていない。それをとがめるほどぼくは冷酷にもできていない。実際、ぼくはその絵を見て感心している。

 ぼくの、はじめの彼女も、もうそのぐらいの姿になってしまっている。正確なものから遠くなってしまったが、感動自体をすべて奪う力はなくなっていない。ぼくが描いたとしても、当人には似ていなく、当人も自分だと気付かないはずだ。ぼくは、この四十四回というものを通して、絵ではないが力の限りにやろうとしたのだ。取り組んだのだが、正確な、ありのままの彼女ではない。ぼくの目という歪みを生じたガラス越しの肖像だった。ありのままの彼女など、もうどこにもいないのだ。アンナ・カレーニナやボヴァリー夫人が紙面にしかいないのと同じく。

 だが、書く理由が根絶されたわけでもない。モナリザはほほえむためにこの世に生まれて、真珠の耳飾りの少女も生を受けなければならなかったのだ。動きは制限されながらも、本物より輝きを有した姿があった。

 それほど、ぼくは技術に長けていない。生まれ落ちた日に、技能も観察する能力のプレゼントの箱ももらっていない。手ぶらで生み落された。二冊の本の主人公の生き生きした振る舞いや、二枚の絵画の女性たちより劣ったものしかのこせなくても、それは仕方がないことなのだ。実力不足を嘆くことすら傲慢だった。

 だが、出会って、そこから関係が発生したことが、なにより重要なのだった。ぼくが会った大勢のなかで三人は確実に大きな存在だった。そして、ぼくのこころや思いは正確な大きさとは呼べないかもしれないが、伝わって相手のそのこころのどこかに移動した事実も宝だった。

 子どものおもちゃで似たような形から選んで、同じ大きさの穴に木の模型を組み込むものがある。ぼくは奇跡的にその遊びを本物の人生ですることができた。むりやり強引に押し込めたわけでもなく、うまい具合に模型は見つけられた。その喜びを忘れて、文字で埋め尽くすという簡単で、かつややこしい方法をとり手放そうとしたが、そんなことは本質的に無理だったのだ。しかしながら、ほこりにまみれても台帳にはきちんとインクの文字が記されている。帳簿には、無駄なことに思えても後々のことを考え随時、記すということが立派な日々の務めなのだ。

 これらを鍋に放り込んでいる。できた味付けの可否に拘泥する。モナリザにもならないし、フェルメールの青を基調としたターバンの魅力ある少女にもならなかった。だが、ぼくにとってはそれでいい。ぼくだけが、彼女の果てしない魅力の賛美者であり、目撃者なのだ。ただ時間だけが過ぎる。実際の目はいずれ、かすれるかもしれない。視力も弱くなる。だが、ぼくの本来の目はあの少女の生命力と輝きを一心に見つめることができる。また、そう信じないとぼく自身が崩壊してしまうのだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 11年目の縦軸 38歳-43 | トップ | 11年目の縦軸 27歳-44 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

11年目の縦軸」カテゴリの最新記事