爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 27歳-44

2014年08月05日 | 11年目の縦軸
27歳-44

「どう、お前のタイプだろう?」と友人はすれ違う際に狭い通路で訊いたが、返事の前に自分の席にもどってしまった。

 ぼくは洗面所で手を洗いながら、ひとり言をつぶやく。「帯には短くて、タスキには長いと」

 ぼくはその響きを自分の耳で聞きたかっただけなのだろう。本来の意味合いはあやふやなままだった。おそらく、用途や使いみちとして足りないことを伝えたいのだ。用途? 使いみち? そんなものを女性に当てはめる必要があるのか?

 当然、ぼくは帯もタスキも身に着けたことはない。しかし、形容としてそれぐらいぴったりとする言葉を見つけられなかった。話していても楽しいし、優しそうでもある。美人の部類にいれてもまったく問題ない。リコールのない美人。きっかけはこうして作られている。ぼくは水道の蛇口をしめる。その言葉も妥当ではない。見馴れない方法で水は止まるのだ。誰が通常の使い慣れたものに変更を加えてしまうのだろう。

 ぼくは席にもどる。第一にされることは、美人の顔が笑っても加点しかないという事実を教えられる表情を向けられる。ぼくも、少しぎくしゃくとしながらも同じような表情を浮かべる。敵意はない。その小さなやりとりなど無視して、友人は洗面所の蛇口について考察を述べている。彼は服がその所為で濡れてしまったと伝え、シャツをめくる。鍛えられた腹筋を見せるための一環で、その後は女性たちがその腹を撫でたり、軽く叩く様子に変わった。

「子どものころ、空手習ってたんですけど、いいですか?」と、ぼくのタイプと評される女性が思いがけなく口にした。それから、右手の拳を左の手の平でつつんだ。

「よくないよ」と彼は言って、狭い席を縦横無尽に逃げ回った。みんなが笑う。ぼくは希美のことを忘れている。

 最後に電話番号の交換につながる。ぼくの自由な行動は誰に責められることもない。だが、誰かに追及され責められたいという願望をぬぐえなかった。その権利を有しているのは希美であったのにな、と甘い追憶の入り口の前にまたいた。

「どうだった、タイプだろう?」彼の口から何度も聞いた言葉がもう一回だけ追加される。「空手少女だったのか」
「悪くないね」
「悪くない? こんな完璧なセッティングをした友に向かって、出るのはそれだけか」

 彼はずっとぼくに対して不満と愚痴を言いつづけている。手加減もない。だが、友人の関係の長さがそのすべてを帳消しにする。

 ぼくらは別れる。ぼくはひとりになって今日の出来事を再現してみる。帯にもタスキにも、という表現が足りないという状態を仮定しての意味であることだったが、まったくその反対で余剰なもの、過ぎたるものだと思おうとした。元気で、健康で、静かだと思っていたが、スポーツにも秀でていた。ぼくは彼女を選ぶのだろうか。あるいは彼女はぼくに最初の合格点を出す気でいるのだろうか。

 ぼくが動いても無視をきめこんでも、途中経過を友人は教えてくれるだろう。どちらにしろ、応援したりなじったりするのが彼の役目でもあり存在意義なのだ。

 電車に乗る。窮屈な姿勢のまま上の吊り広告を見る。新しくはじまったドラマの賛否が太字で書かれていた。ヒーローは永遠にヒーローであり、ヒロインは不老の薬を手に入れなければならない。毎日、愉快な日々の住人であることを強いられる。出会いも失意も効果的な音楽が背景を奏でてくれる。ぼくは酔った乗客同士のケンカを耳にする。身体がぶつかったかどうかが議論の中心だ。この狭い車内でひとに触れないことなど不可能だった。この狭い東京でぼくらが出会わない方が選択としてはむずかしかった。しかし、行動範囲もかわれば不図会わなくなることも多い。いや、それしかない。彼女たちはどこかにいるのだろう。希美は歯をみがいて寝る準備をしているころだろうか。ぼくの家に歯ブラシもあった。あれがあそこにあっても彼女は大丈夫なのだろうか、とぼくの酔った脳は前後も未来も過去もごった煮にして考えてしまう。

 ぼくは歯磨き粉のチューブがなくなりかけていることをそこで思い出す。空手少女の握力ならば、もう一回分だけひねり出すことは容易だろうかとも考える。その為にぼくは交際を申し込もうと誓う。ぼくのこのチューブから一回分だけ押し出してください、と。

 ぼくは乗客に背中を押されるようにしてホームに立った。みんな誰かを押し出すのだ。強引に車内にも、あの居心地の良かった場所にも、夏休みの最後の週にも、リゾート地のさわやかなビーチにものこりつづけることはできない。不満もないが、日常はきびしく、貴く、温かいのだ。空手少女のいる日常だって、それはそれで温かいのだろう。殴られるような失態さえしなければ。

 ぼくは改札をぬける。深夜のコンビニエンスストアで歯磨き粉を買う。

「袋に入れます?」
「え?」

 店員は品物とぼくのカバンを交互に指差した。髪の色をなんと形容したらよいのだろうとぼくの頭は語彙の沼をかき回す。これが今日聞く、おそらく最後の言葉なのだった。希美の声はどういうものだっただろう。新婚の希美の声はどういう音色だっただろうとぼくは想像する。


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