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物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(66)

2013年05月26日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(66)

 髪が短くなったケンは、こころも同様に軽くなったようだった。いままで自分のものであったはずのものと切り離される。愛情がなければ、そこに痛みはない。だが、この数週間には痛みとは呼べないまでも、小さなひりひりとした切り傷のようなものがあった。だが、それも数日後には癒されるのだ。別の問題など起こることも知らないケンは飛び跳ねるようにして自室に戻った。それから、上の空を正すようにレポートに戻った。

 ぼくも部屋に帰る。犬が飛び跳ねてきた。金輪際、オレをひとりで残す真似だけはしないでくれと懇願しているようだった。
「まだ、外は暑いから、夕方になったら、ぼくらで散歩に出掛けよう。その前に仕事だよ。きちんとした休日もないので、やはり、自分で律しないとね」

 しかし、期待を膨らますことが容易な性質の自分は、快適にキーボードを叩く指をはずませることができなかった。それでも、物語をひねり出す。外観はできているのだ。ドアを運び、取っ手の感触を試すように撫でる。物語のそういう微細なところを修正することが楽しく思えるように仕向けた。

 ケンは束になった紙を、机のうえでトントンと音を立ててきちんと揃えた。その行為自体が句読点であるようだった。これで、終わり。秋になって本格的な勉強がある。その下準備ができた。そして、自分はどのような職業につけるのか考えていた。一生、研究するのも悪くない。どこかの大きな企業の研究室にもぐり込むことも良さそうだった。売り手や買い手の市場の均衡があることなどには無頓着だった。ただ、若さ特有の未来を信じる気質は隠せそうになかった。

 ぼくは犬との散歩を終え、シャワーを浴びた。妻のオーデ・コロンのふたを開けた。それは、あまりに女性的な匂いが強かった。ぼくはまたきっちりとふたをして、男物のそれがないことを悔やんでいた。それでも、そろそろだなと時計を見て、外に出掛けた。段々と日が短くなっているんだな、と七時前のはじまりかけた夜空に話しかけた。

 ぼくは、ドアを開ける。この店の不思議なベルが同時になる。
「いらっしゃい、ひとり?」加藤姉。本好き。しかし、本をもっていないと、彼女にそのような趣味があることなど想像できない。
「うん。佐久間さんを誘ったけど、明日、面接があるとかで付き合ってくれなかった」
「ご家族は?」
「妻の実家に行ってるんだ」
「この前のビールにします? おいしいと言っていたから」
「そうするね」ひとの存在の理解のスタートは、そのひとの好悪を知ることなのだろうか。

 彼女の作業する背中が見える。もちろん、妻のものとは違う大きさ。首は髪の毛で見えないが、どこか華奢な感じが透けるように見えるようだった。
「どうぞ」彼女はぼくの前にビールを置いた。それから、洗った後のグラスを拭きはじめた。「いっしょに行かないんですか?」
「どこに?」
「奥さんの?」
「あんまり、楽しい環境でもないからね。それに、自由業に冷たい社会だから」
「素晴らしい仕事なのにね」
「娘には、もっとまっとうな所がふさわしいと思っているんだろう」
「わたしなら、喜んで行くのにな。だって、毎日、つづきが読めるんでしょう?」
「物語の魔力」
「そう」言い終わると、彼女はキュッと乾いたグラスの音を出した。きれいになった証拠としてその音色は発信されるのだ。

 ケンは、目の疲労を覚えながら階段を下りて外に出た。夜風が心地よかった。片手で角にあるパブのドアを押した。サッカーのシーズンがはじまる前の今年の予想をラジオが流している。その情報に一喜一憂し、さらにある種の不満や憤慨がビールのつまみになっている。ケンはカウンターでグラスを受け取り、奥の方にすすんでいった。今日は知り合いもいなかったので、窓の外をぼんやりとひとりで眺めていた。耳は、ざわめきとして他のお客さんの会話を聞くともなくだが、耳に自然と半分ぐらい入っていた。しばらくするとYシャツ姿の角張った封筒を小脇に抱えたひとが通るのが見えた。目を凝らすと、銀行員の男性だった。マーガレットの知り合い。彼の回りから疲労のようなものが発せられていた。数年後、自分も同じようなものを身に着けているのかとケンは想像した。だが、彼のこころのなかまではケンも見通せなかった。

 ぼくは、加藤さんのこころのなかが分からない。だが、分からないこと自体が楽しさを奪う訳でもない。ワクワク感など、成分として当初の期待だけでできているのだ。

「そうだ、これを聞くために来たんだ。ぼくのクラス、ぼくのものでもないけど、入るみたいだね」
「そう。あまり、友人との交遊みたいなものをもたないから、弟が心配して。みんな、そこにいるひとたちは楽しいよ、と佐久間さんも言ってくれるので。川島さんもいるし、もちろん、物語もわたしも書いてみたいなって。ひとりででも書けるんでしょうけど、意気込みみたいなものも伝染するといいなと思って」

 ぼくは稀少で、貴重な高山の花でも見つけたような気持ちでいた。わざわざ、世界にもう一冊の本など生み出さなくてもよいのだ。バルザックもいて、ロシアには分厚い本がたくさんある。だが、ここにも次のページをめくることに快感を抱いているひとがいる。その作者になろうとしているひとが。
「次回から、自分の転機となったものと題して、それぞれ書いてもらって、数人には演壇で発表してもらうんだ。それ以外のひとのも貰って、全部、読むけどね。ひとりのおばさんは自伝を書いている。その生々しさに閉口しながらも、ぼくは読むのがやっぱり楽しい。加藤さんの転機は?」
「あ、お客さんだ。いらっしゃい。考えておくから、最初に川島さんの転機を教えて」

 彼女はカウンターの逆のはじに座ったひとの応対に行ってしまった。ぼく専属の店員ではない。だから、ぼくは自分の過去に起こった出来事の箱を開け、転機となりえたものを拾おうとする。

 由美の誕生。犬を由美が飼いたがったこと。はじめて本を最後まで読み終えたこと。レアな本を探してまで読みたくなったこと。いや、妻に結婚を申し込んだこと。初々しい彼女の返事。まさか、二日酔いの不機嫌極まる女性になるとは思わなかった。多少、酒癖も悪い。多少、絡む。自分は人間を題材にしながらも何も見抜いていないのだ。悲しい事実を知る。

「おかわり?」

 そうなのか、グラスを開ければ、彼女はやって来る。偉大な真理。もっと、もっと飲まなければならない。妻と由美は今頃、家族で笑い合っていることだろう。
「会社、辞めることにしました」
 義理の父の顔。呆然とは、どういうことなのか、ぼくはその表情で知る。
「川島さんの転機は?」
「君に会ったこと」と、こころのなかで言う。カウンターの向かいには鏡がある。化粧でもしたのか頬紅を塗ったような自分の顔。ハンサムにはなれないね、同朋とぼくは声に出す。

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