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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(27)

2013年03月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(27)

 ぼくはキーボードを裏返しにして隙間のゴミやかすを取ろうとした。どうしても中に姿がありながらも完全には取り除くことができない。ぼくの才能と同じように。結局は掃除機を持ち出して、勢いよく吸った。その途中でジョンは掃除機に吠え立てている。我が躍動する愛犬。やっと、きれいな状態にもどって安心する。機械の威力をまざまざと感じて、また、電気屋さんのにこやかなる営業力を恐れた。口車に乗る?

「パパ、掃除?」まだ口のなかで、もぞもぞと何やら動かしている様子の由美が訊いた。
「ここにゴミが入って気持ち悪かったからね」
「お皿、もってく」小さな背中が消える。ぼくは指を動かすことも忘れ、ぼんやりと久美子と金魚すくいの少年との会話を想像する。あの年代の自分はなにに興味をもっていたのだろう? 趣味というのもそれほど幅広くはなかった。本を読んでいる。それはひとりになることを強いられる作業だ。会話を遠ざけ、恋人との仲を一時的に疎遠にする。ならば、水泳もそうだ。ひとりで水中で身体を動かしている、息継ぎをするときだけ空中に顔を出す。だが、一日中、水のなかにいられるわけでもない。もちろん、本だって一日、ずっと読んでいられるわけでもない。その為に、世界にはしおりがあった。手もふやけて水のなかの暮らしの限界を告げる。

 秋にでもなれば、彼らはゆっくりとデートをするのだ。遊園地だって選択として良い場所だ。躍動する高低差の激しい機械が前後左右にひとびとを揺らす。絶叫する若者。

 ケンとサイクリングをしたときの情景をマーガレットは思い出していた。秋のさわやかな空気が身体のすみずみまで新鮮なものとして行き渡る。車輪の下には夏の疲れに耐え切れなかったように落ち葉が散り始めていた。彼らは前後になりながら、ときには真横で会話をしながら進路をすすめた。

 銀行家のエドワードとはこういう楽しみが得られなかった。彼はもっと落ち着いて、家のなかで寛いだりするのが好きだった。マーガレットの若いエネルギーはときにはこのように放出する必要があった。それに、同じ行為をして喜びを分かち合うということも彼女は好きだった。

 丘の中腹で自転車を止め、見晴らしの良い場所で市街地を見下ろしている。

「あそこから来たんだね」とケンがその町を指差した。新しい大陸に到達でもしたような達成感のある声だった。振り返った彼は、今度は後方を見る。「でも、あそこまでまだまだありそうだ」

 キーボードの調子が良くなった。自分の思考が脳で生まれ、指に伝達して、ピッチを叩く。それが画面に移る。自転車のバランスを取ることも脳はでき、転がったときの痛さも覚えていた。先日、水沼さんちのたっくんが泣いていた。横には横転した自転車があった。

 マーガレットはケンの活力に負けないように必死に自転車を漕いでいた。だが、同時に優雅さも忘れたくなかった。自分は、負けず嫌いなのかしらとスピードを止めないまま考えている。それに比べてケンは楽しそうに口笛を吹き出した。彼は、自分の力を出し切るという段階までは行っていないのだ。余力がある。それでも、彼はわたしを追い越さない。後押ししてくれるようにわたしの背中を見ているのだ、とマーガレットは感じていた。

 やっと、頂上に着く。市街地はさらに小さなものとなった。いくつかの煙突がのどかにパイプをくゆらす老人のようにゆっくりと白い煙を吐き出していた。
「パパ、さっきの口止め料って、なに?」

 ぼくは山の景色を忘れる。「誰にだって、秘密があって、つい、その秘密を望まないひとに知られてしまって、でも、秘密は秘密のままであってほしいから、その見返りとして何かをあげる」
「クッキーとか?」
「そう。クッキーとか」
「食べちゃったら。もう、秘密を守らないといけないの?」
「いけないんだろうね。口外しちゃいけない」
「口外ね」その意味が分かっているとも思えないが、由美はその言葉を口にした。「ジョンも一口さっき食べたからね。久美ちゃんのこと秘密だよ」娘は命令口調で愛犬に諭すように言った。さらに、もう一度。「ね、秘密だよ」

 マーガレットはケンとの仲を母にも打ち明けていた。勉強を競い合う仲でもあり、知らないことを教え合う間柄でもあった。母は二者を比べている。安定した生活と若さの盛りの思い出。その若さを失う前に、ひとりの男性から慕われなければいけない。

 マーガレットはいつまでも町の景色を見ていた。ケンは飽きてしまったかのように両手を岩肌に着け、その前方の急な斜面を登り出した。それから、大きな声を出し、眼下の町にまで届くように言葉を発した。彼女には声が割れてしまっていたので、聞き取れなかった。自分の名前のようでもあったし、見知らぬ都市の名前でもあったようだ。地面に横たわっている自転車はその秘密を知ってしまったかのように、車輪を小刻みに回している。いつか、この回転も止まるのだ。どこで止まるかも分からない。ただ、もう一度、漕ぎ出すこともできる。すると、秋の空の雲行きが怪しくなってくる。下りは楽だろうな、とマーガレットは安心したような目を向け、ケンの名前を呼んだ。


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