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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(70)

2013年05月30日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(70)

 ひとり以上の存在になりかけている妻は、今日も化粧をして仕事に出かける。九月の朝はまだ暑かった。
「じゃあ、いってらっしゃい。気をつけて」
「ママ、いってらっしゃい」由美はなぜだかもじもじしている。「ママ、赤ちゃんの名前、わたしがつけてもいい?」
「それは意見を出し合って、家族で会議をして、採用を決めるから、由美も考えてくれる?」妻は、もう職場モードに切り替わっていた。
「うん」
「病院の予約をしておくよ。電話で」
「お願い。じゃあ」ぼくは、彼女のかかとのある靴を急に危険なものと感じていた。ある情報を得たことだけで簡単に優しい夫になるものだった。

 娘はランドセルの中身を確認している。宿題が入っている。この夏の成果。娘がそれを背負って玄関を出ると、となりの家の久美子もちょうど通学する時間だった。こんがりと日焼けした彼女。加藤くんは、うかうかしていられないのかもしれない。余計なお世話だが。
「由美ちゃん、また、学校だね。これで、また友だちとも毎日会えるね」
「久美子ちゃん、わたし、もう少し経ったら、弟か妹に会えるの。内緒だよ」
「名前はまだない」父は過去の小説のフレーズをふと口ずさむ。

「ほんと? おめでたいのね。うれしいでしょう?」
「うん。でも、弟ってどっから来るの?」単刀直入な質問。由美だからこそ許される。
「久美子ちゃんは知らないよ。まだね」
「どうして?」子どもの疑問には、きちんと答えなければならない。親としてのけじめ。
「どうしてか分からないけど、まだ大人じゃないからね」ぼくは久美子を見る。赤面が分かるほどの色の白さを彼女の肌は有していなかった。
「由美ちゃんの次に、わたしにも抱っこさせて」久美子はそう言って自分の通学バッグを両手で抱えた。

「いいよ。久美子ちゃんも名前の候補を考えたら、会議に入れてあげる」
「会議?」彼女は笑って、いつものように自転車にまたがり颯爽と消えた。妻の数年前もあのような姿だったのだろう。愛する両親のもとで。意固地な間柄になる夫の存在もしらず。
「途中まで送っていくよ」ぼくは由美の背中からランドセルを奪い、片手にぶら下げて歩いた。「ふたりだけの夏休みも終わり」
「来年は赤ちゃんがいるんだね?」
「いるんだろうね」

 家と学校の中間ぐらいまで歩くと、由美のまわりには数人の同級生がまとわりついた。それを合図にぼくはランドセルを彼女に返した。それからしばらく見送って、また家までの道を歩いた。

 ぼくは、静かな室内でパソコンの電源を入れる。いつもよりモーター音が人気のない空間に響いているようだった。これからは、物語も快適に、順調にすすむ予定だった。昨日までの目論見としては。だが、ぼくはぼんやりとする。パソコンの画面はいつまで経っても動かない。しばらくしてぼくは履歴書のフォーマットをダウンロードして、自分の過去の経歴を入力した。三つほどの公立校に進学して、大学を卒業する。就職して、長くもない期間でその会社を退職する。それが数年前。直近のこの数年間は空白だった。忘れられた人間。

 ぼくは新たな仕事の採用へ到る面接の場面を想像する。この数年間はいったい何をしていたのかと冷徹に問われる。我が大作のことを説明する。ベン・ハーやクレオパトラみたいな豪華絢爛な自分の作品の軌跡。ワイド画面。

 念のため、その未完の経歴をプリント・アウトした。間もなく二児の父になるのだ。生活が大事だ。

 だが、ぼくには市で主催する講座もあった。我がクラス。その生徒たちとの接する時間はぼくにとって貴重なものであり、無碍に投げ出すこともできない。責任の放棄は、世界でいちばん卑しいものだ。そこに埋もれた才能がいるのかもしれない。

 気を取り直して、ぼくは印刷された紙をしまい、病院に電話をした。産婦人科に電話する。症状を訊かれる。検査のことを話す。もちろん、病気でもない。なんとか予約を取り次げるが、きちんと結果がでる山場は数ヶ月もあとのことだった。ぼくの物語と同じだ。

 マーガレットは家のカギを閉めた。それがきちんと成されているかどうか確認するように母も取っ手をひねった。港まで少し距離がある。途中で留守の間、家を管理してくれる現地のひとにカギを渡した。それから、一年間の管理料も手渡した。

「また、来年に来られるのを首を長くして待っています」と、陽気な奥さんは軽やかに言った。背中には数人の子どもたちが人見知りするように母の後ろに隠れていた。

 ふたりはそれから無言で歩く。過去には父がいて、未来には夫がいる道なのだ。マーガレットにとって。母には過去だけが大きくなり、将来は同量ほど待っていてはくれない。レナードが絵を寄贈した酒場がある。早朝の時間にはまだ誰もいないらしかった。もう一度、マーガレットは見たいと思ったが、それは叶わなかった。来年もきっとあそこにあるだろうと期待を膨らますことにした。母は日傘を出した。マーガレットの左手には自分の肖像があった。もし、可能であるならばこの絵の自分にもこの風景を見せたいと思った。

 ふたりは乗船する。誰か見送ってくれるひともいない。だが、マーガレットは振り向いて、陸を見下ろす。なにもないようでありながら、そこにはいままで自分に向けられたすべての視線があるような気もしていた。船は陸から離れる。具合いの悪いおじいさんの咳のような音を出している。母は傘をたたんだ。マーガレットは海に視線を向けた。反対側の陸には自分の決断が招く未来が待っていた。怖いようでありながら、また、真摯な気持ちを呼び込む無限の生真面目さも、待ち受けるあの都市にはあるようだった。

(完)



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