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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(68)

2013年05月28日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(68)

 ふたりと一匹で昼寝をした。我が家の小学生の昼寝に付き添うようになってから、これが習慣化してしまう恐れがあった。怠惰とは、なんと甘い蜜なのだろう。午後になり公園に行く。秋の気配はまったくない。強い日差しから守るため由美は帽子をかぶる。水沼さんが今日もいた。夏休みが終われば、ぼくらがここで会うこともなくなるのだろう。

「由美ちゃん、宿題終わったの?」

 すべり台を登る由美の背中に水沼さんが声をかけた。
「終わったよ。最後の日ぐらい、ゆっくり遊びたいからね」
「また、早起きして学校行かないとね」

「おばちゃん、たっくんが学校でいなくなったら、どうやって時間を過ごすの? 毎日、ここ来るの?」すべり台を楽しんだ由美はぼくと水沼さんの間に挟まるようにすわった。
「どうしようかしらね」
「パパは、いっぱい仕事をするんだよ。それで達成感があって、ご褒美をもらうの」
「いいわね」
「その前に昼寝の癖を直さないといけないけどね」
「それで、顔のほっぺたのところに床の痕みたいなのがついているんですね」

 ぼくは頬を片手で撫でる。それらしき手触りのものもあり、確認のために鏡でも見たかったが、この場ではどうすることもできなかった。
 マーガレットの母のナンシーはうとうとしていた。やがてドアを開ける音がして目が覚める。どこか、印象が変わったマーガレットが室内に入ってきた。それが首からぶら下っているものの所為だということにやっと気がついた。

「彼は旅立ってしまったわ」
「好奇心が旺盛な職業についてしまった結果ね。あなたは、エドワードさんについて、きちんと答えを用意しているんでしょうね?」
「うん。待たせてばっかりでは悪いので」それ以上、問い詰められるのを防ぐようにマーガレットは首飾りをつかんだ。
「それは?」

「彼がくれた」
「ああいう男性もいたのね。この齢になって、思い出を増やしてくれるとは思ってもみなかった」母は満足そうに言った。喪失感はかけらもなく、ただ清々しい表情だった。「毎日、決まりきった作業には向いていないひとたち」
「でも、同じ会社に通っていたお父さんで良かったんでしょう?」
「もう今更、他のひとの思い出にも変えられないし。それが、つまらないひとりの女性の歴史なのよ」

 母にはなつかしむ過去があった。マーガレットには溢れるほどの未来への期待と、ささやかな不安があった。
「ランドセルは何語、とここで質問をした宿題がのこっているんですけど、川島さん?」水沼さんの質問が数週間前の自分にもどす。
「そんな憶えもありますね。意外と執念深い性質ですね」
「女なんて、みんなそうよ。手に入れられないものに、我慢がならない」
「いろいろと満足いく生活でしょう。生活の心配もいらないほどの旦那さんがいるんでしょう。うちは妻の働きで家計が成り立っているようなものだから」
「そんなに卑下して。謙遜でしょう」
「事実は事実。頬や髪の寝癖ぐらい、事実」

 マーガレットは衣類をたたみ、荷物を整理した。見送った側の当人も間もなく、自分の家に帰る。マーガレットはエドワードとケンの両方から交際を申し込まれていた。その事実を忘れるようにレナードの面影を思いだしていた。荷物の端には肖像画が布で覆われていた。それも忘れずに家に持ち帰るのだ。

「お母さん、今年のここは楽しかった?」
「とても。あの画家さんにも会えたし、それにあと何年ここに来るかも分からないし」
「そんなに、心細いことを言わないで」それを強調するかのようにマーガレットはトランクのふたを思いっ切り閉めた。

 公園にいれば由美のスカートは汚れる。靴のなかにも砂が混入する。彼女は靴を脱ぎ、反対に向けて、見えない微小な砂粒を落としていた。
「パパ、疲れて、喉も渇いた。涼しいところで休みたい」
「じゃあ、ファミレスでも行くか」

 たっくんと水沼さんと別れて、ぼくらは木陰のしたを選んで歩く。宿題がある。大人にとっては、簡単に調べれば分かることなのだ。だが、両者に疑問が介在しつづける立場も、それはそれで悪くなかった。気にかかっていることが、相手との連結の証拠でもあるのだ。いったい、なにを考えているのだろう。

 店にはきょうも児玉さんがいる。
「川島先生は若い女性への贔屓がすごい、と母が言ってました」注文を終えると、クラスにいる母からの非難の情報をぼくに投げかける。
「筒抜けだね」
「パパ、筒抜けってなに?」
「壁も、遮断するものもなく、丸ごと相手に伝わっちゃうこと」
「悪いこと?」
「秘密も、隠し事もないと考えれば、そう悪い面ばかりでもないね。由美の素行や成績は先生からの連絡帳で筒抜けだった」
「悪いことみたい」
「秘密も大事だよ」意味もなくぼくはそう言った。
「そこそこにね」と、児玉さんの娘は言った。

 マーガレットは用も済み、家の前の大きな木のしたでぼんやりとしていた。子どものときはここを去るのがとても悲しかった。来年にまた来られるよ、と言われても現在から隔たっている遠い未来が実感できないので、無性にそうなだめる両親にも腹が立った。だが、ここに来る機会も確実に減りつづける母の一言にも、同じように腹が立っていた。しかし、時間を置くと、それは苛立ちでもない。寂寥感というものが正しいのかもしれない。自分にそうした感情が眠っていて、いま目覚めたことにマーガレット自身が驚いていた。それで、少女に戻ったかのようにわざと地面の小石を靴の先で蹴った。その行為で解決することもひとつもなく、ただ、何かの決定を先延ばしにするとしか思えないような時間だった。無駄にないにせよ。

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