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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(61)

2013年05月21日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(61)

 マーガレットは作者がいなくなった自分の分身を眺めている。確かに、レナードがいなければ生み出されなかったものでありながら、自分という存在がなければ、そのきっかけすら彼に与えることがなかったのだと尊大にも思っていた。しかし、その自分も母がいなければこの世に生を享けず、喜びも希望も感じなかったはずだ。また、父がいなければ、自分の幼少期を無邪気に可愛がってくれた記憶も目減りしてしまうだろうとも考えていた。一枚の絵がここまでたどりついた自分のもろもろの忘れかけていた思い出を再浮上させ、数々の闇に消えかける記憶の運命に抵抗する手助けにもなってくれた。現在の自分が描かれたに過ぎないのに。

「あと、宿題は?」妻が娘に訊いていた。
「絵を三枚描くだけ。水色、使いたいな」
「あら、そういう考え方もあるのね。じゃあ、水とか空だね。題材は決まっているの?」
「この夏のことだから」

 ぼくはネクタイを結びながら、耳をそばだてていた。今日は、土曜日。八月の最後の週末で文章のクラスがある。来週の初めにはもう九月になるのだ。断りもなく足早にやって来る。
「まごにも衣装。ねえ、あれって、馬の子のことなの? それとも、子どもの子どもの孫?」妻はぼくの格好を見ながら、そう質問した。
「孫なんて、だいたいはきれいな洋服を買ってもらえるんだろう。由美だって、デパートでおじいちゃんやおばあちゃんに新しい服を買ってもらったばかりじゃないか」
「じゃあ、いやがる馬の子どもに鞍を乗せたりするときのことなのかしらね。きれいな化粧回しみたいな感じで。それで、無理に乗って、無理に走らせて」
「動物愛護のひとに叱られそうな映像だけどね」
「先生は言葉の魔術師だから正解を知っているんでしょう?」

 飽きてきたのか、由美は話をききながら馬の絵を白い紙のうえにいたずら描きしていた。
「それは、夏休みの思い出にはなりそうもないわね」妻はあきれたようにそう言った。「水色を使うんでしょう? いつの水色?」
「ひとつは、マーメイドみたいな久美子ちゃんが泳いでいるシーン。わたしが観客席から応援している。手にはおにぎりがあって。パパもいる。もうひとつはそこの金魚。水色と赤。ひとつはママがプールで具合が悪くなって寝ているところ」
「そんな絵、なんかいやね。パパとママとの対比も酷すぎるし。しかも、この水色のチューブじゃ足りないかもよ。あなた、帰りに文房具屋さんで水色の絵の具だけ買ってきて」
「もっと、いっぱいの色が欲しいよ」
「欲張りはダメ。使い終わったら買うの!」
「ママもいっぱい口紅をもってるじゃん」
「パパはネクタイをそれほどもっていなかった」そう言ってぼくはにぎやかになりかけた家を出た。まだ、空は日差しが強く、目に痛いほどの快晴だった。

 数軒先で打ち水をしている主婦がいた。だが、撒いても直ぐに乾いてしまうことが予感された。このように多くのことは気持ちの問題であり、無駄な抵抗を繰り返しつづけることだった。ぼくは物語のとっかかりをメモをし忘れ、何度も喪失した。それでも浮かんできては、また何事もなかったようにきれいに忘れた。

 マーガレットは執拗に絵に向かっていた。関心を起こすのは、もう自分のことではなかった。この絵はいったん自分の家に行く。もう一枚はレナードが懇意にしていた画廊にすでに運ばれているはずだった。そこから、買い手がつかず埃をかぶりながら壁にかかりつづけるのかもしれず、どこかの倉庫で朽ちるのをただじっと待つのかもしれない。私の方は、どこかに別の運命が待っているのかもしれないと思うと、マーガレットは恥ずかしいような、期待するようなそわそわとした感情がこころのどこかで波立っていた。

 だが、軽食を片付けるためにそこを離れた。まだ絵は乾き切っていないようだった。具体的な時間は把握していないが、完全に乾燥するまであのままにしておきたかった。しかし、マーガレットが自分の家に帰るまで数日しかないので、いつまでもそうして置く訳にもいかない。その前にレナードがここから旅立つ予定で、乗り込む船を見送る約束をさきほどしたばかりだった。手紙をくれると言ったので、マーガレットは自分の家の住所のメモを渡した。それが届いたときは嬉しいのだろうか、それとも、一通も来なくて、やはり、あの夏のことは幻想に過ぎなかったのだろうかと自分のおぼろげな記憶を恨む機会になるのかもしれなかった。すると、あの絵はその証拠として手元に置いておきたいとマーガレットは誓うように目をつぶった。

 ぼくは習慣になった場所に着く。佐久間さんが挨拶をしてくれた。彼は快活になった。もともと、目立たないタイプだがきちんと居場所を見つける役目がこのクラスにあったのだろう。その手助けができることはぼくの幸福でもあった。

「今日は、川崎さんに発表してもらうんでしたよね。楽しみだな。声がきれいなウグイス嬢。アナウンサーになりたいとのことだから、文のことは保障ができないけど。きっと、声同様に内容もすてきなものなんでしょうね」ぼくは皆の前でそう言った。

「川島先生は、いつもいつも贔屓が過ぎる」と、児玉さんが冷然と言い放った。事実は冷や汗をかかせる。

 ぼくはクラスの後方の壁際に立った。まだ、たくさんの蝉の合唱がきこえる。川崎さんは優雅に前に向かった。白い紙をにぎっている。手が汗ばんでいるのか、青いハンカチを持っている。そして、青いスカートの裾がゆれた。暑さを忘れさせる瞬間だった。ぼくは水色の絵の具を買うことを忘れるかもしれない。自分の創作のきっかけすら失念してしまうぐらいだ。それも暑い夏と、鮮やかなどぎつさの一歩手前の青の所為にしてしまえば許されるのだろう。そう思っていると、美しい響きがぼくの鼓膜をやさしく震わす。

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