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物語の連鎖
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悪童の書 r

2014年08月26日 | 悪童の書
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 粋と無粋の物語。

「平等」という観念が生きる指針としてもっとも尊く、誰もが不可侵の状態に高めて置いておくべきものなのだ。頭では充分過ぎるほど理解できている。見知らぬ誰かの奥底に侮蔑と、その侵入の気配が見え隠れすると直ぐに見抜き、不快な気持になる。チャンスはすべてのひとに等しく与えられ、同じ報いを受けるべきなのだった。

 酒を飲んでいる。自分の飲み物も付属のおつまみも自分が支払う。当然の成り立ちだ。サービスする側も給料だか時給だかで己の時間を売って、正当な代価を受け取る。経営者はその狭間で喜んだり、嘆いたりする。野菜の価格も天候で左右されるのだ。海も時化る。

「いっぱい、よかったら、どうぞ!」

 給料日の直後はひとを寛大にする。言いかえれば、ルーズにする。
「いただきます」

 若い娘でも礼儀正しいひとは確実にいるのである。
「いただきます」
「あれ!」

 奥の方から別のベテランの女性や、厨房にいるこれまた長めの人生を歩んできた女性もなぜだかお礼を言っている。多分、このぼくに。ぼくは友人といる。「ババアにおごったつもりもないんだけど」口は災いのもとである。愚かである。ぼくは平等という観念に夢中になり、その支配する国の第一番目の住人であったはずなのだ。なのに、なぜ。

 粋ということを見よう見真似でしたアマチュアに過ぎないのだ。慣れてないというのは、必ず間違いを引き起こすのだ。別にその若い女性をどうこうする意志などさらさらなく、ただ、この自分がいる前面や小さな宇宙を美しくしたかっただけなのだ。別の惑星から女性が来た。言い訳はたくさんできる。だが、無粋というのは消え去らないものである。銀座の一等地でその行為をした訳でもない。ただのきれいでもない川に挟まれた低い土地での話である。

 ぼくはトイレに行ったのであろう。そのむりやりおごられ、むりやり難癖をつけられる運命になった女性たちは、ぼくの友人に慎ましくお礼の視線を送っていたそうである。恥というのを呼吸のようにして生きなければならない。

 ある高級な酒場に勤める、あるいは経営する女性は出世する男性を見抜けるそうである。その豪語を本にもする。そうなろうと、理想に向かうアドバイスを健気に読むひとがいるともまったく思えないのだが、世の中に送り込まれる。力とお金は常に善である、という思考もある。

 職場にいる。ケンカというのはルールのもとに置かれてやるべきなのだ。一方的な恫喝など決してあってはならない。イベンダー・ホリーフィールドのような仕留めるパンチは口げんかに持ち込むことも許されない。軽いジャブの応酬こそ、大人のするケンカなのである。

 お客という立場が強いのか? ここを仕切る現場の人間に主導権があるのか。常連さんとなれ合いの環境を長い時間かけて作り上げた努力を勝手に崩壊させてよいのか。ぼくは翌朝、反省する。反省を持続させることもこの年齢になると難しい。反省の山がここやあそこにたくさんある。そして、この文で立証させる。

 粋というものと、感謝を別の次元に置きたい。そもそも、ひとにおごるほどの身分でもないのだ。なれないことをした為に、反作用でいつもの自分が正直に顔を出しただけなのだ。すると、いつものままの自分でいれば、勝手に高貴な自分もこっそりと顔をのぞかせるのだろうか。高貴にも気品にも充分な訓練が必要であった。一朝一夕で身につく代物ではない。

 行きづらい場所が増える。恥かしさと赤面を失った時点で老化に向かう。あの可愛い子もいつか命令する。指導する立場になる。我が技に不満をもらす。反動として誰かに八つ当たりする。結果、ババアという言葉が安易に口から出る。

 自分の使用した言葉だけでそれぞれの辞書ができたりすると仮定する。ボキャブラリーが豊富であることは文明の証しである。反対に少ない言葉数は安楽の成果である。ひとりで畑を耕し、妻には自分の欲求だけを口にする。新聞。風呂。寝る。

 会社にいるとそうもいかない。期限や納期をきちんと決め、意志の疎通に限りない言語を費やす。エレベーターにも話しかけられ、さまざまな機械も自分の主張を述べる。

 週末になる。ただ、気の置けない友人と飲むだけのはずだったのだ。財布はこの月の後半だけは潤っているのだ。この楽しさを誰かに分けたい。酒をおごる。自分の意図より周囲にひろまってしまう。「ババアにはおごったつもりもない」と言いだす。卵が先なのか。オレは失礼と不平等の国の住人だったのか。

 次の店に移る。反省はない。さらに加速させる。誰を味方にするか、その判断もできない。結果、一先ずすべてを敵に回しておく。酒を勝手におごる。優しさというものにずっと抵抗しようと思う。その甲斐もなく初対面のひとに改札まで送られている。手を振られている。すべて、後から聞いた話をうまく編集しているだけなのだ。

 悪童でいようと思う。決意ではない。優しさにほだされる。自分は、これでも許されるのだと思っている。迷惑という観念と、友情や愛を同列に、あるいは同じ袋に入れようとしていた。あながち間違いでもない。友情は相手のために自分の時間を割くこと。迷惑と定義すれば、そうも化けるのだ。どこに中心を置くのかだけが問題で、そのシーソーの片側で、きょうもぼくは揺れる。


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