s
軽蔑の起源を目撃する話。
ゴミ捨てという行為が日常に組み込まれている。指示どおりに動かなければならない。
ぼくは片手に通勤バッグ。もう片方にはゴミと化した品々が入った袋をぶら下げている。緊張感も意気込みもない、普段の日常の一部となってしまった作業。歯磨きやひげそりと同等の無意識の魔術。
空き缶を選別しているおじさんがいる。反社会的な行為と糾弾するほど、ぼくも冷酷にできているわけでもない。横にそっとぼくの分を置く。これも彼の食費の一部になるのかもしれない。
赤とピンクの中間のようなランドセルを背負った小学生が横を通りかかる。表情なんて演技の学校にでもいかなければ教えられるものではない。おそらく想像の範疇だが、母か、それとも父が空き缶を拾うおじさんを見たときに軽蔑しなさいとも、いたわりなさいとも教えられていないと思う。だが、このときまさにこの少女は生まれてはじめて軽蔑という確固たる表情を身につけたのだ。自分がその表情を浮かべたことも悟ってはいないだろう。人間の悲しさである。目は口ほどにものを言うのである。
ただ観察ということを止められないもうひとりのおじさんに見とがめられてしまっただけなのだ。当然、ぼくもこの日以外に何度もしている。あるときは意図的に、あるときは「がっかり」という調味料をどっさりと追加して。
ひとは成りたかったものだけに成るのではない。そうすれば、野球やサッカーの選手や宇宙飛行士で溢れてしまうかもしれない。成りたくない立場にもなる。社会の椅子取りゲームは過酷で野蛮なのである。ぼくは蔑視できない。こっそりと視線を送らないというのが、せめてもの愛情の最大限の義務である。自分も生活の糧を何かで得なければならない同じ人間なのである。
あのランドセルの少女は一度も給料というものをもらったこともないだろう。ランドセルはどちらかの祖父母が買ってくれたのかもしれない。給食費の滞納もない。世界は優しい場所である。きょうの夕飯の心配もない。
請求書や領収書は誰かが受け取ればいいのだ。自分は高いところで軽蔑の表情と斜めからの視線の練習をしておくだけで済む。簡単だった。
反対に立つ。大人は軽蔑されないところに自分を隔離しなければならない。わざわざ見せることもない。遊園地から出たゴミはどこかに消え、タバコを吸う休憩所など密室にあれば終わる。
「トゥルーマン・ショー」という映画のことをぼくは思い出している。現実の人間のリアル・タイムを刻々と流している。だが、そこは操られた世界なのだ。現実だと認識していないのは主人公だけのようだった。
現実はふてぶてしい。野良ネコやカラスも漁る。彼らの生存の欲求がある。ぼくらは破かれた袋を見ながら、軽蔑とは違う段階にいる。すると、軽蔑というのは選択に負けた結果のようにも思えてきた。宇宙飛行士になれなかったので仕方なくという風に。
息を吸って二酸化炭素など出すもの、みな、潔白ではない。自分の手も視線も汚れている。
自分もまだ無知のころ、同じようなまなざしを誰かに向けたときがあるのだ。
当時、水洗便所というものがまだ行き渡っていなかった。インフラ整備などという言葉も一度もきいたことがないころのことだ。ここまで書けば大体は想像がつく。みなも自分の胸に手をあてるのだ。向田邦子女史も短編だか、エッセーで書きのこしている。
すべてが、したいことだけをして生きるのではない。ハムレットだけで舞台は成立しない。狂える女性も必要なのだ。
職業に貴賤などない。金の出所も経緯も札には書かれていない。ぼくはきれいごとの虜となっており、ひとが誰かにどのような視線を送るのも、また勝手であった。侯爵やら伯爵という地位も黒人の音楽家以外にも冗談ではなく生真面目につけていた世界なのだ。命令する側も指示を待つ側もいる。そして、労働を必要とする側がいて、何か手仕事をしないと時間をもてあます側もいた。
だが、してはいけないこともたくさんある。中毒患者を生み出す側の一員にはなりたくないし、ひとを殺す武器も作りたくないし、売りたくもない。ひとつの視線を大げさなものとしてしまう。ひとの些細な視線など気にしていたら身がもたない。その注意力と観察する意識を失った自分も、また自分ではなくなる。
ぼくは横たわる。女性が蔑視の目を向ける。悪いものだけではない。共存させるのが世の中でいちばん大切なのだ。嫌悪と快楽を共存させる。忙しい人間、夢中になっている人間は他人の目など気にせずにすむ。集中する。集中すると逆にあらゆるところを注視できる人々もいる。
ランドセルの少女は宿題を忘れたかもしれない。先生は軽蔑感をにじませる。少女は自分の勉強机のことを思いだす。昨日、早めに仕上げたのに詰め込むのを忘れてしまったのだ。その言い訳は、言い訳としてだけ機能する。締め切りに間に合っても、ここまで運ぶのが彼女の勉強の一環だった。
少女は不良になる。学問を怠る。うまく会社になじめない。アウトローのなんたるかを知る。結果、なりたくないものになる。ぼくは数メートル先で、手にしているのが正真正銘のゴミ袋で、通勤バッグではないことに気付く。どこで、左右が入れ替わったのか。ネットの網の目の下に置かれているぼくの大切な品。想像力を減らさないといけない。電車の時間にまだ間に合うだろうか。
軽蔑の起源を目撃する話。
ゴミ捨てという行為が日常に組み込まれている。指示どおりに動かなければならない。
ぼくは片手に通勤バッグ。もう片方にはゴミと化した品々が入った袋をぶら下げている。緊張感も意気込みもない、普段の日常の一部となってしまった作業。歯磨きやひげそりと同等の無意識の魔術。
空き缶を選別しているおじさんがいる。反社会的な行為と糾弾するほど、ぼくも冷酷にできているわけでもない。横にそっとぼくの分を置く。これも彼の食費の一部になるのかもしれない。
赤とピンクの中間のようなランドセルを背負った小学生が横を通りかかる。表情なんて演技の学校にでもいかなければ教えられるものではない。おそらく想像の範疇だが、母か、それとも父が空き缶を拾うおじさんを見たときに軽蔑しなさいとも、いたわりなさいとも教えられていないと思う。だが、このときまさにこの少女は生まれてはじめて軽蔑という確固たる表情を身につけたのだ。自分がその表情を浮かべたことも悟ってはいないだろう。人間の悲しさである。目は口ほどにものを言うのである。
ただ観察ということを止められないもうひとりのおじさんに見とがめられてしまっただけなのだ。当然、ぼくもこの日以外に何度もしている。あるときは意図的に、あるときは「がっかり」という調味料をどっさりと追加して。
ひとは成りたかったものだけに成るのではない。そうすれば、野球やサッカーの選手や宇宙飛行士で溢れてしまうかもしれない。成りたくない立場にもなる。社会の椅子取りゲームは過酷で野蛮なのである。ぼくは蔑視できない。こっそりと視線を送らないというのが、せめてもの愛情の最大限の義務である。自分も生活の糧を何かで得なければならない同じ人間なのである。
あのランドセルの少女は一度も給料というものをもらったこともないだろう。ランドセルはどちらかの祖父母が買ってくれたのかもしれない。給食費の滞納もない。世界は優しい場所である。きょうの夕飯の心配もない。
請求書や領収書は誰かが受け取ればいいのだ。自分は高いところで軽蔑の表情と斜めからの視線の練習をしておくだけで済む。簡単だった。
反対に立つ。大人は軽蔑されないところに自分を隔離しなければならない。わざわざ見せることもない。遊園地から出たゴミはどこかに消え、タバコを吸う休憩所など密室にあれば終わる。
「トゥルーマン・ショー」という映画のことをぼくは思い出している。現実の人間のリアル・タイムを刻々と流している。だが、そこは操られた世界なのだ。現実だと認識していないのは主人公だけのようだった。
現実はふてぶてしい。野良ネコやカラスも漁る。彼らの生存の欲求がある。ぼくらは破かれた袋を見ながら、軽蔑とは違う段階にいる。すると、軽蔑というのは選択に負けた結果のようにも思えてきた。宇宙飛行士になれなかったので仕方なくという風に。
息を吸って二酸化炭素など出すもの、みな、潔白ではない。自分の手も視線も汚れている。
自分もまだ無知のころ、同じようなまなざしを誰かに向けたときがあるのだ。
当時、水洗便所というものがまだ行き渡っていなかった。インフラ整備などという言葉も一度もきいたことがないころのことだ。ここまで書けば大体は想像がつく。みなも自分の胸に手をあてるのだ。向田邦子女史も短編だか、エッセーで書きのこしている。
すべてが、したいことだけをして生きるのではない。ハムレットだけで舞台は成立しない。狂える女性も必要なのだ。
職業に貴賤などない。金の出所も経緯も札には書かれていない。ぼくはきれいごとの虜となっており、ひとが誰かにどのような視線を送るのも、また勝手であった。侯爵やら伯爵という地位も黒人の音楽家以外にも冗談ではなく生真面目につけていた世界なのだ。命令する側も指示を待つ側もいる。そして、労働を必要とする側がいて、何か手仕事をしないと時間をもてあます側もいた。
だが、してはいけないこともたくさんある。中毒患者を生み出す側の一員にはなりたくないし、ひとを殺す武器も作りたくないし、売りたくもない。ひとつの視線を大げさなものとしてしまう。ひとの些細な視線など気にしていたら身がもたない。その注意力と観察する意識を失った自分も、また自分ではなくなる。
ぼくは横たわる。女性が蔑視の目を向ける。悪いものだけではない。共存させるのが世の中でいちばん大切なのだ。嫌悪と快楽を共存させる。忙しい人間、夢中になっている人間は他人の目など気にせずにすむ。集中する。集中すると逆にあらゆるところを注視できる人々もいる。
ランドセルの少女は宿題を忘れたかもしれない。先生は軽蔑感をにじませる。少女は自分の勉強机のことを思いだす。昨日、早めに仕上げたのに詰め込むのを忘れてしまったのだ。その言い訳は、言い訳としてだけ機能する。締め切りに間に合っても、ここまで運ぶのが彼女の勉強の一環だった。
少女は不良になる。学問を怠る。うまく会社になじめない。アウトローのなんたるかを知る。結果、なりたくないものになる。ぼくは数メートル先で、手にしているのが正真正銘のゴミ袋で、通勤バッグではないことに気付く。どこで、左右が入れ替わったのか。ネットの網の目の下に置かれているぼくの大切な品。想像力を減らさないといけない。電車の時間にまだ間に合うだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます