爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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存在理由(20)

2010年11月24日 | 存在理由
(20)

 それで、物事を順調に覚え始めたなという自負が大嫌いな失敗の塊は、その自信のアキレス腱を噛みつき出す。失敗というかたちをとった落とし穴は、いつの間にかきれいな形の落とし穴を準備万端に作っており、ぼくもそのことにまったく気付かずに、自分の道を優雅に歩いている積もりだった。だが、それさえも、振り返ってみれば貴重なスパイスという、人生の隠し味であることを知るのだった。もちろん、その当時は、そんなに悠長に考えることは出来なかったわけだが。

 インタビューが立て込んでいるときがあった。体調が悪いながらも、自分として完全に近いものを用意していた。その後、いつもより多めに風邪薬を飲んで眠りに就いた。そのせいか、ぐっすりと夢も見ずに、深い眠りに落ちたまま目覚ましの音を感じることもなく寝坊してしまい、あわてて出かける用意をし、昨夜の資料を急いで鞄に詰め込んだ。

 その日は、直接、相手の会社の前で、先輩、米沢という名前だが、米沢先輩と待ち合わせをし、受付で入館の手続きをして、部屋に通された。そこで、

「資料は揃ってる?もう一度、目を通しておいて」
 と言われ、まだ完全に眠気と体の痛みが抜けきっていない気分を残したまま、そのことを直後に忘れてしまうほど、焦ってしまった。
「あれ?」
 独り言だったが、米沢先輩はすぐに聞き留め、「どうしたの?」と、言った。
「次の人の資料と入れ替わってしまっているみたいです」

 なにも先輩は答えずに、ぼくは冷たい視線で睨まれた。やりやがったな、こいつ、という意味をその凝視した眼は語っていた。
 それ以降は、のどの渇きと時間の流れの遅いことを確認しながら、時間を持て余していった。

 結論としては、先輩の上手な彩り豊かな質問と、それまでの資料がいつの間にか頭に入っていることに驚いていただけだった。ぼく以上に明らかに時間がないはずなのに、いつ、彼女はそれらを詰め込んでいたのだろう。ぼくの出番も、ぼくの存在を示すアピールもできないまま、その時はきれいに過ぎ去った。体調が悪かったせいか、その日は、
「早く帰っていいよ。だけど、おごってもらうからね」と、不敵な笑みを浮かべ、先輩は言ってのけた。恐ろしい。

 次の日も、なにも注意されず、時間が過ぎていく。夕方、紅茶を飲みながらワープロに向かい原稿を仕上げていると、先輩が近づいてきた。
「今日、飲みに行くよ。支払いは分かっているよね」
「はい、まあ」と、うなずき、その時を待った。

 その店は、ぼくの財布の中身を確実に知られているような、値段だった。説教くさい言葉もなく、これを励みになにかを成し遂げるべきだ、というような貴重な教訓もないまま、その時間は過ぎていく。いっそ怒鳴りつけられた方が簡単に気持ちは割り切れたのにな、とは思ってみるのだが、それは自分に対して甘すぎるのだろうか。

 失敗には一言も触れられず、ぼくのガールフレンドのことを質問したり、自分のいままでの交際した男性のエピソードを面白おかしく脚色したりして、その時間はとても寛いだものだった。

 数杯のアルコールが、その場をあたたかい饒舌なものに変えていき、ぼくのネクタイもいくらか緩み、先輩の指輪をくるくると回す酔ったときの癖にも気づき、ハイヒールも急に大きくなったように半分脱ぎ、それからその足は裸足になりたがっていたようだった。普通の人がそうする様子を見せるのをぼくは好きじゃなかったのだが、先輩がするそのような態度は、南国で生まれた人のように大らかな自然なナチュラルさがあった。

 やはり、ぼくの財布の中身は知られていたのか、会計を済ますと、ちょうど、良い感じに札が消え去った。給料の2日前だったと思うが、安い定食を2日、昼間に食べられるぐらいの金額だけが、きちんと薄くなったトーストの色のような財布に残っていた。
「じゃあ、今日は御馳走になるね」
 と、先輩は独り言のように、また勝利者のように言って、タクシーの中に消えてしまった。

 ぼくは地下鉄の入口の明かりを、ふらふらとした足取りで探し、その階段を下って行った。電車内の窓ガラスに映った姿は、学生時代の表情を見つけられなかった。コンパ帰りらしい大学生は、前のシートでゆっくりと眠っていた。ぼくは、良い先輩をみつけられたな、と感謝の気持ちでいっぱいだった。