爪の先まで神経細やか

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拒絶の歴史(123)

2010年11月07日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(123)

 何日か経って、ゆっくりとした時間ができた。テーブルの前には雪代がいた。
「唐突な話なんだけど、東京に行かないかっていう話があって」
「出張?」
「違うよ。向こうの支店にさ」
「良かったじゃない。いろいろ経験できるかもしれなくて」
「でも、そうそう会えなくなるよ」
「むかし、反対の立場があったこと覚えてないの?」
「忘れるわけなんかないじゃん。覚えているよ」
「なら、今度も乗り越えられるよ」
「そう思ってくれてるならいいけど」
「行きたくない理由を探している?」
「多分、あの社長が決めたことだから、断ることもできないと思うしさ」
「ふたりの関係と距離を乗り越える自信がない? 今度ばかりは」
「あの時は、若かったけど、いまはいろいろなものを安定させる時期なのに、と思って」
「大切に考えてくれてるんだ」
「もちろんだよ」
「だけど、あの若いときみたいな情熱は薄らいでしまった?」
「また、それを言う」

 ぼくらは、しばらく黙り、それぞれの言葉を考えている。言葉のうらに隠されている意味合いも計ろうとしている。
「行ってきなさいよ。わたし、ずっと待ってるから。そんないじいじした女性じゃないけど。ひろし君ももっと大きな男性になるべきだよ」

「うん。じゃあ、そっちの方向で答えるよ」しかし、本当はもう行くことに決めていた。だが、こころのどこかで引き止めてくれるなら、そのチャンスを棒に振ってもいいと考えている自分もいた。

 ぼくらは普段どおり、食事をとり、皿を洗い、それを乾かしたり拭いたりした。テレビを見て、テレビを消し、音楽を聴いた。レスター・ヤングという才能あるサックス・プレーヤーは聴き手に自分の能力を微塵も感じさせず、ただ淡々とその世界を構築していた。ぼくは身近にあった雑誌を広げ、洋服やそれを着ている女性たちを無心に眺めた。無心といっても前にそこにいた雪代を思い出し、それを取り戻そうとしていた。また、あの頃の新鮮な自分と雪代の関係も考えないわけにはいかなかった。

 雪代はシャワーを浴び終え、それをぼくにも促した。ぼくはだらだらとグラス片手にレスター・ヤングの世界にとどまっていたかった。そこには変化も悩みもないような印象があったからだ。だが、その世界の音楽は終わり、ぼくも言われたとおり、頭を洗い、身体の汗を流した。

 明かりを消し、ベッドに潜り込んだ。雪代の足はすこし冷たかった。それをぼくの足で暖めようとしている。
「わたしも仕事は自由になるから東京に会いに行くよ」
「うん」
「それとも、迷惑?」
「迷惑じゃないよ。嬉しいよ」
「そう」
 彼女の足はこころもち暖かくなったようだが、それでも、まだ依然として冷たかった。だが、そのうちに寝息が聞こえ、足も次第に離れていった。ぼくは、普段そんなことはないのだが、目をつぶっていても眠れなかった。目は暗い中のものまで見えるように醒め、ここ何年かの自分と雪代のことを考えている。ぼくらは運命のひとに会ったかのように一心になり、こころの奥まで分かりあえたような感覚もあった。だが、それに安住すればするほどに、その気持ちは不安定なものになっていく。

 彼女は寝返りを打った。その拍子に枕から頭がはずれ、華奢な首は居心地悪そうにシーツに触れている。ぼくは頭を支え、柔らかな枕を耳の下にそっと置いた。彼女の眠りは深く、なにをしても今日は起きそうになかった。
 翌日になり、ぼくらはまた同じ日常に戻る。
「じゃあ、社長に昨日のこと、返事しちゃうよ」
「うん、頑張って。いってらっしゃい」

 ぼくは、会社に向かう。彼女は、ずっと待つと言った。ぼくも大学生のときに、彼女が東京で働いていたため、約2年間の空白があった。それを追体験する覚悟はあったが、それが今回も成功するとも思えなかった。ぼくらはもう一段階すすんだ関係に突入する時期に来ていたのだ。それを水に流してしまうようなことが簡単に許されるとも思えなかった。

 会社に着き、ぼくは目で社長に合図をして時間を作ってもらった。それは、雪代に言いました、という言葉を説明するものだった。

「彼女は、納得した?」
「ええ、まあ」
「やっぱり、大人だねぇ」とへんな感心をした。
 ぼくはいつも通りの仕事をしたが、不図、彼女の様子を考えてしまう時間があった。ほんとうに彼女は待っていてくれるのだろうか? 彼女は発言したことをきちんと守ることは知っている。だが、ぼくの東京での期間は正式にはないも同然だった。社長の思いつきで戻って来いと言うかもしれないし、永遠に言わないかもしれない。それをただの口の約束だからと言って、その愛情に依存しすぎて良いものなのだろうか? ぼくは、いろいろな不安要素を掻き集めては、ただ迷った。

 結局は、いまの自分は知っているのだが、もちろん互いの考え出した結論なのだが、ぼくは彼女にそのチャンスを与えなかった。ほかのチャンスの方がおいしいぞ、とでも言うように意気地のない考えを導き出した。だが、それはもう少し時間が経ってからの話だ。