爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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存在理由(15)

2010年11月08日 | 存在理由
(15)

 同じような真新しいスーツを着た男性や、女性が集まって行く。自分もその一員である。外には桜が咲いている。

 それぞれの顔の表情には、所属する場所を得た安堵感や満足感が浮かんでいる。また、それとは逆に他の人間とは差異があることを証明しなければならない焦りやエネルギーの発露を探している表情もあった。自分は、偶然にもこの場所に居合わせた人のようだった。多分、今まで通りいつも感じていた気持ちを持ちながら、そこにいた。

 生まれながらにして、中心人物になれないような性格を抱えてしまっているので、自分の存在を証明することにも、また、そのためにか、こっそり生き抜いていくことも持ち合わせていないらしく、自分の将来がどう転ぶかも分からないので、休日の将棋の番組を客観的に見ているような、他人ごとのような顔をして、そこにいた。

 自分の配属される部署で挨拶をし、先輩達の期待やら、あきらめやらの気持ちを軽く分析し、仕事とも呼べないような雑用を済ましていく。

 何日か経ち、歓迎会のようなものも開かれていく。個性を押し殺したような挨拶をし、異常に緊張している同僚の声を他人のような気持で聞き、何十年、ここで暮らすことになるのだろう、といらぬ計算もした。

 歓迎会も時間が進めば、本心もいくらか見え隠れする。きれいな新入社員にすぐ名刺を配る先輩たち。自分は、多分、長いことここにはいないのだろう、という気持ちをすぐに持ってしまった。社会が自分を利用するならば、自分の時間を摩耗しつづけていくならば、自分もその領分を考えなければならない。

 お酒が入る量とネクタイの緩む範囲が比例していく。何人かの同僚は酔い潰れ、逃げ足の痕跡を残さないことを第一の主義にしている先輩たちはうまく消え、自分は、ここではいもしないみどりのことを考えていた。

 歓迎会も終わりが近づき、そこまで酔いにも耐えた、新人の自分を含めた男性5人と女性の3人がチェーン店の喫茶店で、コーヒーを囲んでいる。それぞれの不安を言い合い、回答のないまま疑問だけが増え続けていく。

 自分は会社の規模が大きくなっていただけで、学生時代のバイトの経験が生かされていくのだろうと、安心感を抱くことが勝っていた。一時間弱、そこで時間を潰し、それぞれの終電の時間を気にしながら、店を後にした。

 駅までの道の途中で公衆電話を探す。一つ目は意識していたのか素通りしてしまったが、二つ目の場所で、みどりが心配していることだろうと、彼女の番号を押した。

 電話に出た彼女はうとうとしていたのだろうが、ぼくの電話を待っていたらしく、いつものように少しぼくをなじった。彼女が世界とつながるには、いつもこのような態度を取ることをぼくは知り始めていた。それはぼくにとっては、そんなに厭なことでもなかったが、この時は、すこし違うな、という感じを抱いた。その気持ち以上に大切なのは疑いのない事実なのだが。

「どうなりそう? 新しい職場?」
「まだまだ、分からないよ。自分のことを期待されていないことも分かるし、そこから長い期間をかけて役にたつことを証明していかなければならないんだろう。憂鬱だよ」

 組織の人間として暮らすということに、普通の人間は疑問を抱かないのだろうか? 自分は絶えず、この時代とこの国の在り方を疑問視していかなければならなかった。
「そう、難しく考えるのは悪い癖だよ。困った時は助けになるからね」

 彼女は、いつものように、姉のような気持を、この夜も発揮した。

 電話を終え、春とは言いながらも、実際は冬の未練を引きずっている陽気の中を、薄い生地のスーツで寒く感じながら、地下鉄の駅まで歩いた。

 車内に入ると、急に眠気を感じ、前に座っていた人が降りたので、空いた席に身を沈める。鞄を抱え、文庫を取り出したが、眠気に負けてしまい、目をつぶった。

 この時に、あと40年近く、自分の脳と体力と、他との駆け引きで暮らしていかなければならないとの実感を見出した。多分、その期間には、みどりの存在もずっとあり続けるのだろう、との予感もした。