爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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存在理由(14)

2010年11月04日 | 存在理由
(14)

 親から最後にもらうことになる数枚の一万円札が、数着のスーツになり、数枚のシャツとネクタイにも化け、新しく社会に出る用意ができた。それは、外面にとってのはなしだが、とにかく先ずは外見を整えれば、その後はどうにかなるだろうという気持ちもあった。

 ちょうど、スーツを選んだ店は、雑誌社で働いていたときに取材したこともあり、それからもつながっていた関係なので、いくらか値段を安くもしてくれた。それ以上に、きちんとしたスーツは、自分にとっても初めてなので浮つくかもしれない不安もあったのだが、きちんとチョイスをしてもらい、自分にぴったりなのが嬉しかった。

 その変わりに、その女性の店員が仕事が終わる時間に待ち合わせをして、一緒に御飯に行くことになった。その女性は若いのに、とてもエレガントで、また可愛らしい面も多かった。しかし、名前が通っている人の彼女であるということも、大っぴらにはされていないが有名なはなしだった。彼らの関係は、まだまだ子供の感覚が抜けきらない当時の自分にとっては、羨望のまなざしでもあった。

 その女性と、レストランのテーブルを間に挟み、きれいな顔を見ていると、その男性はいかに幸福、それも大きな幸福をもっているのだろうと、軽く赤ワインで酔った頭でぼくは思いを馳せた。
 彼女は、とても繊細な指先をしていた。それに、時間を確認するためだけに使うには、とても不都合な腕時計を、細すぎる手首にはめていた。

 きれいな数歳上の女性と、おいしいワインが並び、それに会話もスムーズに運べば、酔いも増幅されるのは仕方がないかもしれない。

 今日も、みどりは仕事で忙しそうだった。それは、自分のこころに、きちんと言い聞かせ決着をつけたと思ってはいたのだが、その時はいたって若く、可能性の袋は無制限に膨らみそうな気持を有していたので、食事が終わっても、このひと時に定住したい気持ちもそこにあった。

 勘定を済ませ、そのまま彼女の知り合いのバーに連れて行ってもらった。今度は、彼女がぼくの就職祝いということで、私の知り合いの店に連れて行くということらしい。

 小さく流れる音楽があり、働くこと、テーブルを片づけること、グラスを丁寧に洗うこと、そうしたことのために、小さな世界を確立することにいそしんでいる人が店の中を切り盛りしていた。彼女の快活な笑い声を聞きたいがために、ぼくは自分の失敗談をかき集める。それを親友に起こった事件のようにも、たまには脚色した。

 いい加減に酔いが限界にまで達し、地下の店から足がふらつきながらも、やっと外の急に冷たくなった風に当たった。ビルとビルの間からかすかに東京タワーが恥ずかしげに姿を表し、彼女のコートの方から、名前の分からない香水の匂いがした。みどりは、あまりそうしたものをつけなかった。

 ここからは、自分に決定権のない奴隷のように彼女の住まいについていった。悪いことをしているな、という感情は残っていたはずだが、誰かの目に触れることもないし、みどり以外の人に自分が好かれるのか確認したかった気持もあったのかもしれない。すべて、言い訳なのは充分すぎるほど分かっているのだが。

 タクシーがそばを通り、その路上から姿を消す二人。鏡の中には、紅潮した自分の顔と、彼女の赤くなった肩が、そのぼくの顔のそばにあって映った。

 タクシーはいくつかの信号を音もなく通り過ぎ、何店舗かのコンビニの横も通過し、大人の通過儀礼としてなのか、そこに集まっている、行き場のない若者たちもちらほらいるのが見えた。数年前は、ぼくも田舎の町をそのような一員として集まっていた。しかし、いまはきちんと行き場を探し、暖かい女性の笑い声を、すぐ近くで耳にすることも出来ている。
 タクシーは止まり、ある酔っぱらいに、

「きれいな彼女を連れちゃって」と、下品なことばを投げかけられ、それでも、そこから数十メートル先の彼女の家に着いた。
 彼女は、着替えのために別の部屋に入り、ソファにぼくは倒れこんだ。数枚の一万円札はスーツになり、そのような新品の服を着た同僚たちが、一週間後にはぼくにもできるのだろう。

 自分は、きちんと居場所をみつけられるのだろうか? 社会をファール・ゾーンからではなく、自分もグラウンドの中から周りを見渡すことができるのだろうか?