拒絶の歴史(112)
「また、あの子のことで責められてるんだ?」
「ごめんね。雪代には関係ないことで。嫌な思いをさせているかもしれないけど」
「気にしてないよ。ひろし君は、わたしのことが一番好きなんだもんね」
「もちろん」と言ったが、それは95パーセントぐらいは真実で、5パーセントぐらいは嘘ともいえない不鮮明な部分だった。
「そうだよね?」
「そうだよ。そのためにぼくは今まで暮らしてきたんだし、たくさんの思い出がそれを証明している」
もう三次会だった。言葉というのは放たれた瞬間からどこかに消えるものであり、その何分の一かは残り、またそのうちのいくらかは誤解を与え、またそこから少しだけ減った分が誰かの脳に違う印象を刻み込んだ。
そのようないらぬ心配をしていると、以前見かけたことのある上田さんの知り合いの歌手がそこに登場した。もって生まれた能力のある人が、そこにいて、ぼくの悩みやら悲しみやらをいとも簡単に吹き飛ばす。まだまだ、その頃は彼女は無名だったが、その後一瞬だけひとの話題にのぼった。しかし、新しいものが好きな大衆は彼女のことを直ぐに忘れた。だが、大衆と一線をおこうとした自分はずっと彼女の才能を忘れることはできなかった。
その歌声を聴いて、ぼくは感銘を受けた。刺激的な一日だったので、ぼくの涙腺も緩み、なみだを流したかもしれない。
「あの人、いつか有名になるんでしょうかね?」
「どうだろう。そうなってほしいよ」今日の主役の上田さんはそう言ったが、答えを求めているようには思えなかった。そこに、智美があらわれた。
「また、いじめられちゃうんだよね」
「なんか、一生背負わなければならない間違いを、きっと自分は犯したんだろうね」
「わたしは、いつの間にか許してしまった」
「みんなが、そうであってほしいよ」
「上田くん、智美ちゃん、おめでとう」山下と離れてしゃべっていたと思っていたが、いつの間にか近付いてきた雪代がそう言うと、ふたりはありがとうと答えた。
「ぼくの大切な二人なんだ」ぼくはありのままの気持ちを告げた。
「彼の友だちでいてくれたことを、わたし、ずっと感謝している」
「近藤が、なんとか挫折から守ってくれたのも、雪代さんだと思っています」と上田さんは言った。
「ほんとだったら、どんなに嬉しい言葉だろう」
「本当ですよ」と、智美は言った。
「本当かしらね?」
「彼は、もっとずっと大きな男になると思って期待をかけていたけど、ラグビーもあきらめてしまって、いまではうちの父を助けてくれているから、そんなことは言えた義理じゃないけど、オレはずっと近藤と過ごした時間が好きだった」
「わたしも、ひろし君との時間がなにより好きだった」と、雪代も言った。
「あの生意気な男の子が、こんなきれいな女性にそういわれるようになるんだ。幸せにしないといけないよ」と、智美は自分の今日の喜びを他のひとに分け与えたいように語った。
そうして、式は終わり、ぼくらは順々にタクシーに乗り、家に帰った。
「良かったね。誰かが幸せになることの証人になれて」
「ぼくは、あの先輩と出会えたことが、とても大切な思い出になっている。彼がいなかったらあの大変な練習に耐えられたのかも、疑うほどだけど」
「いろいろなことを知らなくてごめん。わたしは、ずっとひろし君がたくさんの強豪チームを負かしてくれることだけに興味をもっていた」
「それは当然だよ」
「わたしも、あのように幸せな人間になれるのかな」
「いまだって、幸せなんじゃないの? とくにひとからみたならば」
少なくとも、ぼくはこうしてタクシーの横に彼女がいてくれることが幸せだった。だが、別のひとびとは彼女の前の女性の印象が強く、それを手放したことを快く思っていなかった。仕方のなかったことだけど、もう今日限りでそのような責めも最後になってくれればいいと安易に望んでいた。ぼくの着ていたスーツには皺がより、ネクタイはゆるみ、服自体にタバコの匂いが染み込んでいた。それでいながら、となりの雪代を見ると、洋服はきれいなままで、髪の毛も来たときと同じようにきちんとセットされていた。
「山下君も妹さんと結婚するのかな?」
「どうなんだろう? 多分、そうなると思うけどね。あいつだったらずっと信頼できそうだし。さっき、なにか話していたね」
「まあ、いろいろと」
その言葉のあとを彼女は続けなかった。それが良いことなのか、悪いことなのか自分は判断しかねた。でも、なにがあっても、山下は自分の味方であり続けるであろうと予測をつけていた。
「彼も社会人になって、それでもラグビーを続けられることを嬉しいとともに心配していた」
「あいつなら大丈夫だろう」
「ひろし君の高校時代に接したことを、とても感謝しているみたいだった」
「そうなんだ」
ぼくはあの当時のことを思い出そうとしていた。上田先輩と練習後にふざけあい、山下を連れては実家に呼んで夕飯をいっしょに食べた。また、もっといろいろなことを思い出そうとしたが酔いと眠気が混じりそれ以上は浮かんでは来なかった。気がつくとタクシーの後ろで眠ってしまったらしい。家の前で揺すぶられ、ぼくは車から出た。もたれかかるように雪代に抱きつき、それが雪代なのかまた別の女性なのか分からないような気持ちが一瞬だけあった。しかし、彼女の声をきくと、これこそがぼくの求めている声なのだと我に返った。
「また、あの子のことで責められてるんだ?」
「ごめんね。雪代には関係ないことで。嫌な思いをさせているかもしれないけど」
「気にしてないよ。ひろし君は、わたしのことが一番好きなんだもんね」
「もちろん」と言ったが、それは95パーセントぐらいは真実で、5パーセントぐらいは嘘ともいえない不鮮明な部分だった。
「そうだよね?」
「そうだよ。そのためにぼくは今まで暮らしてきたんだし、たくさんの思い出がそれを証明している」
もう三次会だった。言葉というのは放たれた瞬間からどこかに消えるものであり、その何分の一かは残り、またそのうちのいくらかは誤解を与え、またそこから少しだけ減った分が誰かの脳に違う印象を刻み込んだ。
そのようないらぬ心配をしていると、以前見かけたことのある上田さんの知り合いの歌手がそこに登場した。もって生まれた能力のある人が、そこにいて、ぼくの悩みやら悲しみやらをいとも簡単に吹き飛ばす。まだまだ、その頃は彼女は無名だったが、その後一瞬だけひとの話題にのぼった。しかし、新しいものが好きな大衆は彼女のことを直ぐに忘れた。だが、大衆と一線をおこうとした自分はずっと彼女の才能を忘れることはできなかった。
その歌声を聴いて、ぼくは感銘を受けた。刺激的な一日だったので、ぼくの涙腺も緩み、なみだを流したかもしれない。
「あの人、いつか有名になるんでしょうかね?」
「どうだろう。そうなってほしいよ」今日の主役の上田さんはそう言ったが、答えを求めているようには思えなかった。そこに、智美があらわれた。
「また、いじめられちゃうんだよね」
「なんか、一生背負わなければならない間違いを、きっと自分は犯したんだろうね」
「わたしは、いつの間にか許してしまった」
「みんなが、そうであってほしいよ」
「上田くん、智美ちゃん、おめでとう」山下と離れてしゃべっていたと思っていたが、いつの間にか近付いてきた雪代がそう言うと、ふたりはありがとうと答えた。
「ぼくの大切な二人なんだ」ぼくはありのままの気持ちを告げた。
「彼の友だちでいてくれたことを、わたし、ずっと感謝している」
「近藤が、なんとか挫折から守ってくれたのも、雪代さんだと思っています」と上田さんは言った。
「ほんとだったら、どんなに嬉しい言葉だろう」
「本当ですよ」と、智美は言った。
「本当かしらね?」
「彼は、もっとずっと大きな男になると思って期待をかけていたけど、ラグビーもあきらめてしまって、いまではうちの父を助けてくれているから、そんなことは言えた義理じゃないけど、オレはずっと近藤と過ごした時間が好きだった」
「わたしも、ひろし君との時間がなにより好きだった」と、雪代も言った。
「あの生意気な男の子が、こんなきれいな女性にそういわれるようになるんだ。幸せにしないといけないよ」と、智美は自分の今日の喜びを他のひとに分け与えたいように語った。
そうして、式は終わり、ぼくらは順々にタクシーに乗り、家に帰った。
「良かったね。誰かが幸せになることの証人になれて」
「ぼくは、あの先輩と出会えたことが、とても大切な思い出になっている。彼がいなかったらあの大変な練習に耐えられたのかも、疑うほどだけど」
「いろいろなことを知らなくてごめん。わたしは、ずっとひろし君がたくさんの強豪チームを負かしてくれることだけに興味をもっていた」
「それは当然だよ」
「わたしも、あのように幸せな人間になれるのかな」
「いまだって、幸せなんじゃないの? とくにひとからみたならば」
少なくとも、ぼくはこうしてタクシーの横に彼女がいてくれることが幸せだった。だが、別のひとびとは彼女の前の女性の印象が強く、それを手放したことを快く思っていなかった。仕方のなかったことだけど、もう今日限りでそのような責めも最後になってくれればいいと安易に望んでいた。ぼくの着ていたスーツには皺がより、ネクタイはゆるみ、服自体にタバコの匂いが染み込んでいた。それでいながら、となりの雪代を見ると、洋服はきれいなままで、髪の毛も来たときと同じようにきちんとセットされていた。
「山下君も妹さんと結婚するのかな?」
「どうなんだろう? 多分、そうなると思うけどね。あいつだったらずっと信頼できそうだし。さっき、なにか話していたね」
「まあ、いろいろと」
その言葉のあとを彼女は続けなかった。それが良いことなのか、悪いことなのか自分は判断しかねた。でも、なにがあっても、山下は自分の味方であり続けるであろうと予測をつけていた。
「彼も社会人になって、それでもラグビーを続けられることを嬉しいとともに心配していた」
「あいつなら大丈夫だろう」
「ひろし君の高校時代に接したことを、とても感謝しているみたいだった」
「そうなんだ」
ぼくはあの当時のことを思い出そうとしていた。上田先輩と練習後にふざけあい、山下を連れては実家に呼んで夕飯をいっしょに食べた。また、もっといろいろなことを思い出そうとしたが酔いと眠気が混じりそれ以上は浮かんでは来なかった。気がつくとタクシーの後ろで眠ってしまったらしい。家の前で揺すぶられ、ぼくは車から出た。もたれかかるように雪代に抱きつき、それが雪代なのかまた別の女性なのか分からないような気持ちが一瞬だけあった。しかし、彼女の声をきくと、これこそがぼくの求めている声なのだと我に返った。