だいぶ間があいてしまったので、改めて。
『三国史記』 「列伝第一 金庾信 上」より。
〔善徳王〕16年丁未(647)は、善徳王の末年で、真徳王の元年である。〔この年に、〕大臣の毗曇(ひどん)と廉宗(れんそう)が、女王ではよく国を治めることができないといって、兵を挙げて、〔善徳王を〕廃位しようとした。〔善徳〕王は、自ら王室内でこれをふせぎ、毗曇たちは明活城(慶北慶州市普門里)に屯(たむろ)し、王の軍隊は月城(慶州市仁旺洞)に軍営をおいた。十日間の攻防でも、攻めおとすことができなかった。丙夜(夜中の12時)に、大星が月城に落ちた。毗曇らが兵士に、
私は、星が落ちたところには、必ず流血〔の惨事〕があると聞いている。このことは、きっと女王敗北の前兆であろう。
といった。兵士たちは大声で叫び、その声は地を振わせた。大王はこれを聞いて恐れおののき、なすすべを知らなかった。庾信は王に会って、〔次のように〕いった。
吉兆や凶兆は、きまっているものではなく、それは人が呼びよせるものです。だから、
(中略)
かくして、〔庾信〕は、すべての将兵を督励し、奮って賊軍を襲撃した。毗曇らは敗走したので、これを追って斬り殺し、九族を滅ぼした。
歴史的には、毗曇の乱(ピダムの乱)の渦中に善徳女王は亡くなるのだが、その死因は明らかではない*。しかし、毗曇は、次代の真徳女王が在位したのちに誅殺されているので、少なくとも善徳女王の面前 で毗曇が亡くなるというのは、やはりドラマの演出なのである。(別にドラマの内容にケチをつけているわけではない)
(*もっとも、『三国史記』636年3月の記録に「王が病にかかり、医術や祈祷も効果がなかった」とあり、その後、回復したとも、治ったとも特に書いていないので、善徳女王の晩期はやはり病に冒されたままだったのかもしれない)
朝鮮半島初の女帝として君臨した善徳女王だったが、晩年には高句麗や百済に頻繁に国境を侵され、上大等に任命したばかりの直属の部下(ピダム)に裏切られるという悲しい結末を迎えることになったわけだ。
http://blog.goo.ne.jp/takizawa_you/e/31c7bf1cd7824b8bedfbb1d075545025
ピダムの出生について詳しいことは歴史書では一切わかりません。ピダムに限らず、この時期の人物たちは史書に記述があっても数行程度というのがほとんどですので(キム・ユシンのような扱いは特別)、憶測の域を出ないという印象です。