外交面では百済・高句麗から攻められっぱなしの善徳女王だったが、内政の面では数々の施策を打ち出している。
そんな善徳女王の人柄がしのばれる「三国史記」の記述の数々。
(いつものごとく東洋文庫版より)
徳曼の性格は寛容で仁徳があり、明朗・俊敏だった。
632年
冬10月、使者を〔国内に〕派遣して、国内の鰥寡(やもめ)や孤独なもので、自立することのできないものを慰問し、施し与えた。
640年
夏5月、王は王族の若者を唐に派遣し、〔唐の〕国学に入学させてほしいと申し出た。
国学・・・国立の学校
また仏教の布教に注力した様子もうかがえる。
- 芬皇寺(634年)、霊廟寺(635年)の完成
- 皇龍(ファンニョン)寺の塔(九重塔)を創建(645年)
- 慈蔵法師を唐に派遣し仏法を求めた(636年)
(「三国遺事」によれば、慈蔵法師の父親は14代風月主(プンウォルチュ)の虎才(ホジェ、虎林ともされる)だということ。虎才は真平王の妻マヤ夫人の弟でもある)
ちなみに、ドラマの中に出てきたチョムソンデ(瞻星台)も善徳女王の時代に建造されたものとして有名である。(善徳女王と天文台(瞻星台))
また、「三国遺事」には、善徳女王が未来を予見する能力を持っていたことを示す3つのエピソードが取り上げられている。(うち2つは「三国史記」にも記述あり)
- 唐から送られてきた牡丹の絵を見て、この花に香りがないことを言い当てた。
- 霊廟寺の池でたくさんのカエルが鳴き続けている現象から、百済軍が潜伏していることを言い当てた。
- 自らの死期を言い当てた。