朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

トンマンの生年を推理してみる

2011年07月09日 | 善徳女王

「三国史記」の記録において王の在位期間や没年は明確になっているが、その生年が不詳というケースはかなり多い。トンマンこと善徳女王の生年もハッキリとはわからないのである。

そこで、以下の仮定を前提にしてトンマンの生年を探ってみたい。

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現代では医療技術の発展により40歳超えても出産可能になってきたが、かつて安全に出産することができるのは30歳ぐらいまでと言われていた時代もあった。

古代社会においては初潮を迎えれば出産可能年代とみなされたわけで、15歳ぐらいで子を産むのはごく自然なことだった。(ドラマ「善徳女王」においてチョンミョンがチュンチュを産むのもそれぐらいの年代である)

そこで、多少の誤差はあるかもしれないが、

  • 古代社会における「女性の平均的な出産可能な期間」を15歳から25歳までと仮定してみる。(あくまでも「仮定」の話なのでご注意)
  • そうすると必然的に、同じ母から生まれた兄弟は10歳以上離れることはない。

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キムチュンチュの生年は一説には602年とされているので、ここから逆算すると母チョンミョンの生年は577年から587年の間ということになる。

チョンミョンの父、真平王の生年も不詳とされるが、「花郎世紀」によれば567年生まれということらしい。これを信じるなら、10歳で父親になるというのはさすがにムリと思われるので、チョンミョンの生年は582年から587年の間ぐらいに絞れそうである。

ちなみに、ドラマ「善徳女王」では、チョンミョン15歳のときに夫ヨンスが母山城奪還に出かけ戦死、宮殿を出て尼になった1年後にチュンチュが赤子で登場している。つまり、587年前後をチョンミョンの生年としていることがわかる。

トンマンこと善徳女王は、「三国史記」では真平王の長女となっているが、「花郎世紀」では次女とされているようで多少混乱がある。双子だという史実はないが、ひとまずチョンミョンとそれほど年齢差が無いとしてみると、647年に亡くなった時は60から65歳の間ということになるので、結構なおばあさんだったわけだ(当時の感覚として)。

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キム・ユシンの生年は595年なので、同じ母(マンミョン夫人)から生まれた妹たち(宝姫、文姫)の生年は遅くても605年までに収まるはずである。文姫はキム・チュンチュの妻となったので、当時の世相を考えるとチュンチュより年上(姉さん女房)とは考えにくいが、仮に605年を生年としてみると出産可能な時期は620年から630年の間ということになる。

チュンチュと文姫(文明王妃)の間に生まれた文武王の生年は不詳とされているが(「花郎世紀」では626年とされているらしい)、681年に亡くなっているので死亡当時の年齢は51から61歳の間に収まり、それほど違和感は無い。

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ミシルは、「花郎世紀」を参考に執筆された小説によれば銅綸、真興王、真智王、真平王との間に子を儲けているが、真興王(チヌン大帝)の子を産んだのが事実だとすれば、少なくとも真興王の亡くなる576年以前には出産のできる年齢に達していたわけで、ここから計算するとその生年は(遅くとも)551年から561年の間ということになる。

善徳女王が王位に就いた632年まで生きていたとすれば、71から81歳の間になっているわけで、まったく無い話ではないが王権を奪うような政変を起こせるはずもない。(そもそもミシルは女性の「性」を武器にしてのし上ったのであって政務に就いていたとは考えにくいのだが)

ちなみに、Wikipedia英語版では、クエスチョン・マークつきではあるが【540? ~ 600?】という表記がある。


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