朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「風の国」を検証する その2

2009年10月06日 | 風の国

(「その1」からの続き)

三十三年春正月、立王子無恤爲太子、委以軍國之事。秋八月、王命烏伊摩離、領兵二萬、西伐梁貊。滅其國。進兵襲取漢高句麗縣(縣屬玄菟郡)。

33年(西暦14年)正月 (ユリ王は)無恤(ムヒュル)王子を太子として立て、軍事国政を委ねた。
8月 ユリ王は烏伊(オイ)と摩離(マリ)に命じて2万の兵を率いさせ、西にある梁貊(ヤンメク)国を征伐させた。これにより梁貊(ヤンメク)は滅んだ。さらに兵を進め、漢に属していた高句麗県(玄菟(ヒョント)郡に属す県)を襲い奪い取った。

これによれば、ムヒュルが太子となった時点でも烏伊(オイ)と摩離(マリ)は健在で、高句麗の要職についていたことになる。つまり、彼らは朱蒙、ユリ、ムヒュルと3代に渡って仕えていたということだ。

梁貊(ヤンメク)という国の名前はドラマの中でもたびたび登場する。ムヒュルがまだプヨの黒影(フギョン)の一員であったとき、ヨジンの立太子令を祝う席にトジンらと潜入するが、その際に梁貊(ヤンメク)の使節団と偽っていた(ような気がする)。

三十七年夏四月、王子如津、溺水死。王哀慟。使人求屍不得。後沸流人祭須得之。以聞、遂以禮葬於王骨嶺、賜祭須金十斤、田十頃。秋七月、王幸豆谷。冬十月、薨於豆谷離宮。葬於豆谷東原。號爲琉璃明王。

37年(西暦18年)4月 如津(ヨジン)王子が川で溺れて死んだ。ユリ王は慟哭し、使いを出してその死体を捜させるが見つからない。のちに沸流(ピリュ)人が見つけて葬祭した。ユリ王はこれを聞いて王骨嶺において葬礼を行い、(沸流(ピリュ)人に)金十斤、田十頃を賜った。
7月 ルリ王は豆谷に行幸。
10月 豆谷離宮においてユリ王崩御、豆谷東原で葬儀を行った。号を瑠璃明王とする。

「風の国」では戦(いくさ)で負った傷が原因で如津(ヨジン)王子が亡くなっているが、実際には溺れ死んでいたということである。同じ年にユリ王も亡くなり、ムヒュルが王の座につくこととなる。ちなみにこのときムヒュル15歳。

五年春二月、王進軍於扶餘國南。其地多泥塗。王使擇平地爲營、解鞍休卒、無恐懼之態。扶餘王擧國出戰、欲掩其不備、策馬以前、陷濘不能進退。王於是揮怪由。怪由拔劍號吼撃之。萬軍披靡、不能支。直進執扶餘王斬頭。

5年(西暦22年)2月 ムヒュル(大武神王)はプヨの南に進軍する。その地は多くが泥沼だったので平地を選らんで屯営し、馬の鞍を解いて兵士を休ませた。恐れる様子はまったくなかった。プヨのテソ王も国をあげて出撃、不意打ちを食らわそうと馬を進めるが、泥にはまり動けなくなった。そこでムヒュルは怪由(クェユ)に命令を発する。怪由は剣を抜き咆哮しながらプヨ軍を攻撃した。プヨ軍は壊滅状態で立て直すことができない。直進してテソ王の首を獲った。

高句麗(朱蒙)とプヨ(テソ王)の悪縁もここまで。とうとうテソ王がムヒュルにより滅ぼされる。 ドラマで描写されるのはこの辺までだろうか。(現時点ではBS FUJIの放送があと残り2回)

ところで、ムヒュルその人については高句麗本紀に次のような記述がある。

大武神王、または大解朱留王ともいう。諱は無恤。琉璃王の第三子。母は松氏、多勿国王の松讓の娘。(在位18年-44年)

つまり無恤(ムヒュル)という一風変わった名前は実際のものだったということだ。注目すべきは、その母が松讓の娘ということで、つまりはムヒュルは朱蒙の孫であると同時に、沸流(ピリュ)の松讓(ソンヤン)大君長の孫でもあるということになる。(ドラマ「朱蒙」ではソンヤンがかなり高齢な設定なので朱蒙との歳の差を考えると違和感があるが。)

ムヒュルはピリュ族の血を引く王子でもあるわけだ。そうすると、そもそも「風の国」の中であれほどピリュ部族と仲違いする理由がよくわからない。

ドラマでは三男のムヒュルまでが先妻の子、ヨジン王子はピリュ系の後妻ミユ夫人の子ということになっていて、ミユ夫人、その弟のアンスンとペグクが組んでヨジン王子を推すピリュ派閥みたいな格好になっているが、史実上はトジョルもヘミョンもムヒュルもピリュの血を引く王子だったわけだ。


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