朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「風の国」を検証する その1

2009年10月05日 | 風の国

もしも「大武神王(ムヒュル)」のドラマが「朱蒙」の続編として製作されていたならば、両者に共通する登場人物がもっと多かったはずなのである。実際にはユリ王とテソ王ぐらいしか共通していない。えっ、ヨンタバル?それは役者さんの話ですがな。

そこで史実上明らかな大武神王の物語を明らかにしてみよう。

以下、漢文の箇所は基本的に『三国史記』高句麗本紀からの引用である。 少し戻ってユリ王の治世から。

十四年春正月、扶餘王帶素遣使來聘、請交質子。王憚扶餘強大、欲以太子都切爲質、都切恐不行。帶素恚之。冬十一月、帶素以兵五萬來侵。大雪。人多凍死、乃去。

14年(紀元前6年)正月 プヨのテソ王が使いをよこして人質を交換しようと言って来た。ユリ王はプヨが強大な国であるのを恐れ、(その当時)太子であった都切(トジョル)を人質として行かせようとしたが、都切が怖がって行かない。これに怒ったテソ王が、その年の11月に5万の兵で攻めてきたが、大雪のため多くの者が凍死、結局退却した。

都切(トジョル)はユリ王の長男である。「風の国」ではすでに死んだ後なので登場しないが、解明(ヘミョン)が亡くなったのち如津(ヨジン)王子が「どうしてコグリョの太子はみな死ぬ運命にあるのか」と嘆くところでその名前が出てくる。都切が死んだ理由は(ドラマでは)明らかにされていない。

二十二年冬十月、王遷都於國内、築尉那巖城。十二月、王田于質山陰、五日不返。大輔陜父諫曰:王新移都邑、民不安堵、宜孜孜焉、刑政之是恤、而不念此、馳騁田獵久而不返。若不改過自新。臣恐政荒民散、先王之業墜地。王聞之震怒。罷陜父職。俾司官園陜父憤去之南韓。

22年(西暦3年)10月 ユリ王は国内(クンネ)に遷都し、尉那巌城を築いた。
12月 ユリ王は狩猟に出て5日間も戻らなかった。大輔(テボ)の陜父が王を諫めて言うことには・・・
「王様は都を遷したばかりで、民(たみ)も不安に感じております。・・・(以下、小言が続く)・・・このような状態では先王(朱蒙)の偉業も失墜してしまうことでしょう。」
ユリ王はこれを聞いて激怒し、陜父をクビにしてしまった。陜父もこれには憤慨し、高句麗を離れ南韓に去ることとなった。

漢字で書くとわかりにくいが、陜父とはヒョッポのことである。ドラマ「朱蒙」では高句麗建国後の大輔(テボ:高句麗の最高官職)は、摩離(マリ)がその職についているが、実際は違ったらしい。オイ・マリ・ヒョッポのキャラクター(性格)はあくまでもドラマ上の設定であり、ヒョッポは馬鹿力の持ち主として描かれるが、実際はマリのようにリーダーシップのある人間だったのかもしれない。

「風の国」では初回から句鄒(クチュ)が大輔(テボ)の職にあるので、無理やりこじつければヒョッポが免職となった後を句鄒が継いだといえるかもしれないが、まあ、そこまで考えても仕方あるまい。ちなみに句鄒(クチュ)はユリ王の幼少時代からの親友であり、ユリが折れた剣を持って朱蒙のところへ向かったときに一緒にいた少年の一人である。三国史記では一緒にいたのは屋智・句鄒・都祖の3人となっているが、ドラマ「朱蒙」でユリの仲間といえばサンチョンとトゥボン。残念ながらクチュは含まれていなかった。

ところで、ヒョッポが南に向かったということは、やはり召西奴(ソソノ)一行と共に高句麗を去ったサヨンのところへ向かったのだろうか?いやいや、これもまたこじつけ。サヨンはドラマ上の設定で実在しない。

実は南に向かった後の陜父の足取りには、驚愕すべき事実が隠されているのである。それはまた次の機会に。

(続く)


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