朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「ヨンゲソムン」 第79話

2010年02月02日 | ヨンゲソムン
デイダラボッチの話を続けたいところではあるのだが、本日放送分の「ヨンゲソムン」第79話でまたしても気になる部分が。

●ヨンゲソムンとチュンニの会話から

高句麗と唐だけでなく列国まで・・・この度の戦に参戦するらしい
外交戦が勝負を決めるはずだ

ごもっともです
日本と薛延陀(ソリョンタ)がその中枢を担うでしょう

そのとおりだ
唐はや奚(ヘ)や靺鞨(マルガル)、契丹(コラン)を味方につける気だが・・・
その力は恐れるに足りぬ
薛延陀(ソリョンタ)だけが突厥(トルグォル)と対等な力を持つ
この件はお前に委ねる

はい 大莫離支
まずは日本に立ち寄ろうかと
日本が我々の後方を援護してくれます
薛延陀(ソリョンタ)は常に唐と対立しており
20万を超える騎馬兵がいます
彼らを引き寄せれば大きな力になります

日本は三韓を天秤にかけ様子をうかがっている
適切に対応するように


つまり、唐と高句麗の戦いは、二国間だけの争いというわけではなく、東アジアにおける世界大戦というか国際紛争の様相を呈していたというわけである。そして、そこにはわが国も決して無関係ではなかった。

イ・セミンが高句麗遠征を行ったのは644年。ヨンゲソムンのクーデターが642年だから、上の会話は643年前後の描写ということになる。

この時期に日本で実権を握っていたのは蘇我入鹿だ。 興味深いことに日本書記642年、643年の条には高句麗からの使者に関する記述がある。これがチュンニだとしたら面白いが、そもそもチュンニは実在の人物?

『日本書紀』巻24皇極天皇元年(642)
二月壬辰《六》壬辰。高麗使人泊難波津。
二月丁未《廿一》丁未。遣諸大夫於難波郡。検高麗國所貢金銀等并其獻物。使人貢獻既訖而諮云。去年六月。弟王子薨。秋九月。大臣伊梨柯須彌殺大王。并殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流。金流。爲大臣。
二月戊申《廿二》戊申。饗高麗。百濟於難波郡。詔大臣曰。以津守連大海可使於高麗。以國謄吉士水鷄可使於百濟。〈水鷄。此云倶比那。〉以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。
二月辛亥《廿五》辛亥。饗高麗。百濟客。
二月癸丑《廿七》癸丑。高麗使人。百濟使人並罷歸。
八月己亥《十六》己亥。高麗使人罷歸。

『日本書紀』巻二四皇極天皇二年(643)
六月辛卯《十三》六月己卯朔辛卯。筑紫大宰馳騨奏曰。高麗遣使來朝。羣卿聞而相謂之曰。高麗自己亥年不朝而今年朝也。

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