二、見えないもの(その一)
高野山其膏宗管長
総本山金剛峯寺座主 松長 有慶
私たちが祈りを捧げる時、普通では仏さまや神さまの前で礼拝します。
キリスト教徒は、救済者イ登ス・キリストを象徴する十字架とか、聖母マリアさまの前で祈ります。
仏教では、お釈迦さまの時代には、生きているお釈迦さまに対して、お弟子さんや信者の方々が祈ったわけではありません。お釈迦さまがお亡くなりになってしばらくたって、信者の方々がどうしてもお釈迦さまを慕って祈りたいと望んだ時にも、お釈迦さまの像ではなく、お釈迦さまの足跡、あるいはお釈迦さまのおいでにならない天蓋と座を代わりに拝みました。
紀元一世紀頃になって、西インドのガンダーラ地方とか、中インドのマツラー地方で仏像が刻まれるようになって、やっと仏さまや菩薩さまのお姿を前にして直接拝むようになったのです。
日本古来の民族信仰である神さまの宗教でも、もともと神さまの像は刻まれませんでした。日本人は山や川、木や森、また時には石や岩などに神さまがおいでになると、そらを崇拝してきました。
奈良時代になって日本に中央集権制度が整備されていった時代に、民衆が信仰する山や川、木や森、石や岩など背景にして社が建てられるようになり、神社という礼拝施設が出来ました。それらの神社には御神体として、鏡や剣が祭られることがありますが、仏像をまねて神像が出来たのは、ずっと遅れて平安時代になってからのことです。
私たちは仏さまや神さまの前で祈ることが通例となっているので、現実に存在する仏さまや神さまに対して祈るように思われがちです。でも仏教ではもともとそれぞれの仏像の背後にある真実なるもの、あるいは神社であれば、その背後に控える、絶大な力をもつ大自然に対して祈ったのです。
目に見えない宇宙の真理を直接拝むということは、なかなかむつかしいことです。そこで人々は目に見えない真実なものを具体的な形でもって表わした仏像とか、神のやどる依(よ)り代(しろ)を対象に祈りを捧げるようになりました。
インドでは仏さまや菩薩さまだけではなく、インドの民衆が信仰している在来の神々を、時代とともに仏教の中に取り込んで、新しく数多くの仏、菩薩、明王、諸天などが生み出され、それぞれが宇宙の真理の一部分をそれぞれ分担して受け持つと信じられてきました。
だから私たちは現実に仏像を前にして礼拝し祈りを捧げるけれども本来はそれぞれの仏像の背後に控えた目に見えない宇宙の真実なるものに対して祈るといってもよいでしょう。この意味で仏教の祈りは、一部の宗教が非難するような単なる偶像崇拝とは違います。
神さまでは、神殿を通して、その背後にある山や川、雨や嵐といった大自然とか、大自然の偉大な働きに祈りかけているのです。 (つづく)
本多碩峯 参与 770001-42288
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