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筆くらべ   生かせ  いのち

2012-03-16 20:02:46 | 高野山
 

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筆くらべ いかせ いのち

                          北原 隆義 (石川県七尾市妙観院 副住職)

 先日、古書店で「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」という本を買い求めました。ページをめくっていると、弘法大師さまにまつわる昔話が載っていました。題名は「筆くらべ」といいます。

  平安時代の三筆といえば、嵯峨天皇、空海、橘逸勢の三人で、いずれ劣らぬ書道の名人でした。彼らの文字は中国的な書風で、力強く、豊かな風格がありました。そのなかで空海は弘法大師と呼ばれ、真言宗の開祖であるばかりか当代きっての知識人で、いろは歌の作成からお饅頭の紹介にいたるまで、始まりのよくわからないものはみんな弘法大師の発案とされているほどです。

  あるとき嵯峨天皇が空海を呼び寄せ、「私の持っている書を見せてやろう。良い手本になるぞ」と、たくさんの書を見せてくれました。「見事なものでございますな」と空海が頷くと、帝はその中でもとりわけ優れた筆跡で書かれたものを得意そうに広げました。「これはすごいぞ。唐の国の誰かが書いたものだろう。名前はわからないが誠にうまい。どう真似てみてもこのようには書けない。私の宝物だ」と目を細めます。「ごもっともでございます」と空海も頷きます。帝の様子を見ていれば、どれほどこの書を大切にしているか見当がつきます。「さすがに唐の国は広い。これほどの名筆家がいるとは、ほとほと感心してしまうほどじや」。

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やがて空海は一礼して呼吸を整えると、「実はこれは私めが書いたものです」と言いました。帝はきょとんとして「そんなばかなことが…」と言うと、空海は重ねて「本当でございます」と答えます。「いや、それはない。第一そなたの筆跡とまるで違うではないか」と帝は笑います。空海は少しも騒がず、「ご不審はもっともでございます。ですが、軸から紙を少し剥がして糊付けされたところをご覧ください」と帝に申し上げました。
 そこで家来に命じて隠された部分を見させると、確かに小さな文字で青龍寺沙門空海と記されてありました。弘法大師空海が唐の長安に渡り青龍寺で修行を積んだのは本当のことやす。沙門というのは僧侶のことで、このように署名するのが昔からの習慣でした。帝は「うーん」とうなると、しばらくして兜を脱ぎ「見事じゃ。しかしどうして筆跡が今と変わっているのじゃな?」と尋ねました。「はい、国によって書き方を変えたからでございます。唐は大きな国ですので、このように強く、勢いよく書くのが相応しいでしょう。その点日本は小さな国ですので、それに従って細かく綿密に書くようにしております」。「なるほど、そなたの言うとおりじゃ」と帝は称賛して止まなかったということです。天皇もまた巧みな筆の使い手であったからこそ、お大師さまのすごさがよくわかったのでしょう。名人を知る人もまた名人だということです。

 

  著者の橘成季(たちばなのなりすえ)は九条家に仕えた名随身で、勤め退き、ゆとりの時間を使って本書の編集作業を行いました。これを読むと、当時の人達が弘法大師空海につぃてどう思っていたかがわかります。お大師さまの懐の深さと、人びとから敬愛されていた姿がほのぼのと浮かび上がってきます。

 

本多碩峯 参与 770001-42288 


いのり―生かせ いのち―     (2)

2012-03-16 16:50:47 | 高野山 座主
 

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いのり-生かせのち-

                                   高野山真言宗管長

総本山金剛峯寺座主

 

 松長 有慶

 

「思いどおりにならない(その2

   私たちが「祈る」という時には、色々の場合があるようです。生命の危機に出会った時に祈るのは、助けてくださいという悲鳴に近い祈りでしょう。それに似ているけれども、それほどの切迫感がないのが、神社や仏さまの前で手を合わせ、家族の平安や商売の繁盛、あるいは志望校の合格などを祈願するといった現実生活上の祈りです。このような祈りが人間にとって最も一般的で、タイプとしては一番多いものと思われます。
 こうした日常的な生活の営みを「さらによくあれかし」と祈ることは、現世利益といって本当の信仰にとっては邪道だという見解もまま見受けられますが、それはかなり極端な考え方で、この点については後で詳しく検討します。
  神さまや仏さまの前で、自分勝手な願いを述べたてて祈るのはいかにもさもしい。神仏に対する祈りは、現状の生活の安定に対しての感謝でなければならない、という意見もあります。
  宗教評論家のひろ・さちやさんは、現世利益を求める祈りを、請求書の祈り、一方、感謝の祈りは、領収書の祈りと名づけておられると聞きましたが、それぞれの祈りの性格を分かりやすく説くという点では納得がいきます。といっても私たちにとっては、どちらがいいかという価値を比べるのではなく、各人の信仰によって選択すべき問題だと思います。
 神仏の前で、現世利益を祈り、あるいは感謝の祈りを捧げるだけではなく、祈りを通じて、自分の心の平安を求める姿勢がより大切だといえます。
 心の安らぎを求めるのは、お坊さんや神主さん、神父さんといった宗教の
専門家だけではなく、一般の信徒にとっても大切な問題です。
 在家信者の場合は本を読んで理解するだけではなく、それぞれの宗教の専門家の的確な指導が欠かせません。
 仏教の場合、僧職にあるお坊さんの心の安らぎを専門の言葉では、涅槃(ねはん)とか解脱(げだつ)、分かりやすい言葉で言えば、悟りといえるでしょう。あまり一般的ではありませんが、仏教の専門的な言葉で、心の安らぎを「安心(あんじん)」といいます。宗教の別、宗教の違いによって、それに至る方法はさまざまです。
 そのほかに、神仏の前で何かの誓いを立てて祈り、その約束を果たすべく努力を重ねる誓願(せいがん)の祈りもあります。 
 さらに自分がなにかの功徳を積んで、その功徳を苦しんでいる人や悩んでいる人には差し上げる祈りもあります。それは仏教では廻向(えこう)といいます。また亡き人をしのんで、その生前の功徳をたたえ、偲ぶ追悼の祈りは一般によく行われます。
 普通、私たちが「祈り」という言葉で表す行動は、ざっと教えてもこのくらいあります。それぞれ性格が違いますので、それぞれについて次から詳しく説明することにします。 
合掌
     本多碩峯 参与 770001-42288