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葬儀について  その(一)

2012-03-22 18:22:48 | 高野山
 

Koyasan_sinpo
 

葬儀について    その一

 

-仏教が取り組む葬儀の意味と意義-

 

平成23715日 在家仏教協会 札幌会場定期講演会公演より

 

北海道深川市丸山寺住職  高畠俊孝

 

 現在の日本には数多くの宗教が存在するなかで、葬儀となれば80%を超える人々が仏教で葬儀を執り行わっている現状は、いかなる訳でしょうか。

  人の死、それをどう考え、どう対処してきたか、その役割を大きく担ってきた仏教、葬儀のあり方とその意味と意義について考えてみたいと思います。

  葬儀はきわめて多層的な構造を持った儀礼です。仏式といっても、すべての儀式や作法、道具が仏教に由来するものではありません。むしろ仏教式といったものはごく一部で、多くのものは民族信仰や神道、儒教、道教等他の要素に拘わっています。

  古代より人間には肉体と霊魂というものがあり、死によって肉体は滅びるが、霊魂は滅びないと考えられてきました。古代の日本人は死を「ケガレ」と考えました。「ケガレ」とは「不潔」と結び付けて考えますが、そうでなく、「ハレとケ」でケは「気」で、元気とか陰気の気です。私達は年をとると気が滅入り、弱まってきます。それで「気が枯れ」ケガレです。それが段々と転化してケガレが不浄を表すようになりました。死が穢れと言う場合は不浄の概念も含むようになったのです。

  昔の人は死者の持っている穢れは肉親や周囲の人に伝染すると考えました。そこで死の穢れの期間を明確に規定したのです。それが四十九日です。この期間を「忌」といいます。「忌中」とは社会的に四十九日行動を慎む、他の人とは接触してはいけないと強制されました。一方「喪」とは自発的に故人のために自分の行動を慎む事を言います。喪は忌と違い社会から行動を規制されるわけではないのです。

  この意味で日本人はお葬式において肉体の処理と魂の処理の両方を行ってきました。人間が共同体を形成し、文化が生まれ、その時葬儀が生まれたのです。世界中のどの民族でも営むといえます。これは人間以外の動物にはありません。だから人間固有の習俗、儀式といえましょう。

現代の葬儀は大半が仏教で執り行っております。そこで葬儀と仏教の繋がりを考えてみましょう。

 本来仏教は葬儀と関係していません。お釈迦さんが亡くなられる前にもお弟子さんに自分の葬儀は在家の人達にまかせて、弟子たちは修行に専念せよといわれ、葬儀は在家の人々が執り行いました。

  かって日本では僧侶による葬儀をやっていませんでした。鎌倉。室町時代に個別的に葬儀を行った形跡はありますが、一般的に儀式化されてはいませんでした。僧侶が本格的に葬儀をはじめた時期と理由は、江戸時代の檀家制度です。江戸ん濃幕府はキリシタンの取り締まりのために、日本人全員をお寺に登録させました。その登録は「宗門人別帳」といい、人別帳によって当寺の檀家であると証明しました。それが檀家制度です。キリシタン式の葬儀を取り締まるために、葬儀は僧侶によって執り行うように命じたのです。それまでは誰が葬儀をやっていたかというと、村の長老でした。大家族制度の本家の主人が葬儀の執行人になっていました。村の長老は神主でもあったのです。

  葬儀を執り行うようになった僧侶は、それまで行っていた出家者(お坊さんの仲間)の葬儀をするようになりました。そこで人が死んだらどうするかと言えば、死者を出家させ、お坊さんにして葬儀する形式が取られたのです。

  出家するときは師について戒律を授かります。これを「受戒」といいます。これを約束して弟子となりこの時、師から付けてもらうのが「戒名」です。浄土真宗では「法名」といいます。また日蓮宗では「法号」と呼びます。仏法の心髄に導き、煩悩の苦しみから救う「引導」を授け、成仏へ導くのです。

  仏教には各宗派があり成仏の方法論も違ってきます。そのため読まれるお経が異なるだけなく、導師の所作も異なり、使われる仏具も違ってきます。同じように読経しているようですが、法要に込められたものは皆異なります。

  ここからは各宗派によっての考え方を簡単に示しましょう。

 つづく

本多碩峯 参与 770001-42288