果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

いのり ―生かせ いのち―

2012-03-02 17:50:54 | 高野山 座主
 

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いのりー生かせ  いのちー

  高野山真言宗管長 
 総本山金剛峯寺座主  松長有慶

一 、思いどおりにならない(その1

 「村の渡しの船頭さんは
  今年六十のお爺さん
 年はとってもお船をこぐ時は 元気いっぱい櫓(ろ)が撓(しな)る」
 という歌がありました。
  その時分、六十歳はまぎれもなくおじいさんでした。いま六十歳の方はまだまだ壮年で、隠居する年ではありません。
  平均寿命が延びたおかげで元気な老人が目につくようですが、一方、体のどこかが不調で、寝たきりになり、あるいは家族と離れて独居し、不自由な生活を余儀なくされておられる方も少なくありません。
  私は若い時に父を亡くしましたが、母は九十三歳まで長生きしました。母は健康でよく働き、あまり人に迷惑をかけるような人ではなったのですが、九十を過ぎてはやはり体のあちこちに故障が出て、よく愚痴をこぼして、体が思うようにならないと「早く死にたい」と口に出して、家族を戸惑わせていました。
  最初にこの言葉を聞いたときには、驚きあわてましたが、何度も聞いて高野山真言宗管長・総本山金剛峯寺座主でいるうちに、ハッと気がつきました。死にたいとうわごとのように言っている言葉は、本当に死にたいと思っているのではなく、早くもとのような体に戻りたいという、母の必死の祈りではなかろうかということです。
  病気になって寝たきりになり、万事が思うに任せぬ体になって、お医者さんも当てにならぬ、家族だってどうしようもないということが、本人に十分わかっているからこそ、このような言葉が繰り返されるのです。 私たちは生きているうちに、思いどおりにならないことが次々に襲いかかってきます。歯をくいしばって何とかその苦難を打開し、先に進みたいと思っていても、どうしようもない事態が度々起こります。
  もちろん現状で考えられる限りの手を打つことは当然のことです。 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざが日本にあります。あらゆる努力を傾注して、なおその上で襲ってきた苦難の首尾よい打開を期待するとすれば、神仏に頼らざるを得ないでしょう。
 いやいや私は神や仏を頼りにはしていない。あくまで自分の力を信じているから、と仰る方もおられましょう。とはいえ人間はそれほど強いものではありません。神とか仏という具体的な存在ではなくとも、何かにすがり、祈るのは、もともと弱い人間にとって当然の行為といえます。
 仏教のみならず神道でも、キリスト教、イスラム教でも、あらゆる宗教において「祈る」という行為はいずれも基本となります。
  神も仏も信じていない人でも、日常生活の中で、何気なく「いのる」という言葉はよく使います。
 手紙の終りに御多幸を祈りますとか、お弔いの時に、御冥福を祈ります、という言葉はごく一般的に使われています。
 (つづく)
 本多碩峯 参与 770001-42288