木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

浜野炬随~努力は裏切らない?

2012年11月15日 | 江戸の人物
二代目・浜野炬随(はまのくずい・はまののりゆき)。
江戸時代の刀剣装飾職人(彫物師)である。
父親である初代・浜野炬随は名人として名高かったが若き日の二代目は生まれつき不器用で、彫ったものはわずかに万屋新兵衛のみが買い取ってくれていた。
だが万屋もついに我慢ができず、「もう彫物師など止めたほうがいい」と厳しく忠告した。
ショックを受けた炬随は絶望のあまり自害しようとしたが、その試みを母親に見破られてしまう。
母親は、
「死ぬのは構わないが、いまはのきわに土産として母に観音像を彫りなさい」と命ずる。
炬随はこの世で最後の仕事と思い、寝食も忘れて一心不乱に仏像を彫りあげた。
その観音像を見た母親は満足げに、
「この像を万屋に持って行きなさい。値は三十両。一文もまけてはなりません」
と告げる。
言われた通りにした炬随であるが、一目観音像を見た万屋は、
「まだ先代の彫った像が残っていたのですか。先代の作品なら三十両は安いものだ」
と言った。
「いえ、その像はわたしが彫ったものです」
と炬随が事情を話すと、まるまる三十両での買い取りを約束した万屋は、
「人間死ぬ気になってやればできるものだ」と感心し、大化けした炬随の成長を喜んだと言う。

よく「努力は裏切らない」という言葉を聞く。
これは嘘だ。
「願い続ければ必ず夢は叶う」が嘘のように。
たとえどんなに努力しても目に見えるところ=結果、として現れてこなければ全く意味がない。
「努力すること」だけでは不十分で「必死に努力する」ことが成功の条件なのだろう。
夢だってただ長く持ち続けていればいいというものではない。

わたしの例で言うと、昔書いていたものを読み返すとよく分かる。
現地にも何度も行って取材をし、丹念に文献を調べ、必要があれば専門家に手紙を書いた。
その上で十分時間をかけて執筆したのだが、肝心のストーリー運びで失敗している。
結局「自分はこれだけ時間をかけて、これだけ努力したので大丈夫だろう」という気持ちの甘え、自己満足があったのだ。
受験生でも「図書館に座っている」という行為に満足してぼーっとしている時間の長い人を見かける(わたしもそのひとりだったが)。
行為自体に満足してしまって、決意と言うか、必死さが足りないのである。

炬随も努力はしていたに違いない。
でも気持ちに甘えがあった。
「今日できなくても明日がある」
「明日でなくともあさってがある」
その繰り返し。
わたしを含め、多くの人がそう思いがちだ。
人生は永遠に続く訳ではない。
毎日全力疾走していたのでは続かない。
でもダラダラと歩いているばかりでは、いつしか走ることもできなくなってしまう。
走れなくなって初めて呆然とするだけだ。
いつ走るかは人によって違う。
わたしにとっては、「今」が走るとき。

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