木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

徳川家達と慶喜

2014年06月11日 | 江戸の人物
徳川慶喜は最後の将軍と言われる。
もちろんその通りなのだが、世間の耳目を集めた最後の徳川家宗主は徳川家達である。
大政奉還の四年前の文久三年に御三卿のひとつ、田安家に生まれ、昭和十五年に鬼籍に入った。

慶喜は良きにつけ、悪きにつけ、幕末の一瞬に華々しく閃光を放った。
慶喜の自意識の強さは何かにつけ喧伝されるが、自意識では家達も負けてはいない。
慶喜と家達の年齢差は二十六歳。
年齢差を考えると、年長の慶喜は、家達のよきアドバイザーだったかのようにも思われるがさにあらず。

慶喜は宗家当主である家達の管理下に置かれていた。
こんなエピソードもある。
さる大名家に招かれた際、慶喜が先に到着し、上座に座っていたところ、あとから着いた家達が「わたしの座るところがない」と告げ、慶喜は慌てて席を譲ったと言う。
家達は「慶喜は徳川家を滅ぼした人。わたしは徳川家を立てた人」と常々口にしていたという。
また家達は「明治以後の新しい徳川家の初代だという意識が強くて、将軍家の十六代ではない」と言っていた。

明治三十六年、家達は貴族院の議長に選出された。
このポストを家達は五期、三一年もの長期に亘って勤めた。
評価をみてみると、政治家としての能力は特筆すべき点はないが、職務遂行と言う点では何ら問題ない、といったものだった。
その家達に大きなチャンスが訪れたときもある。

大正三年、山本権兵衛内閣がシーメンス事件で退陣すると、国民の反発を避ける意味合いで門閥色の強い家達に組閣の白羽の矢が立ったのである。
家達は同族会議を開いて首相の座を辞退するという結論を出したため、大隈重信内閣が誕生する。
生々しい政治の第一線から距離を置いたのは、よきアドバイザーだった勝海舟の影響が大きかった。

昭和四年になると家達は、日本赤十字社社長に就任。
ゲーリー・クーパーと一緒に写真に収まっていたりする。
このポストは家達にはぴったりだったのではないかと思う。
家達は社交家で、政治には一家言を持たず、協調精神にあふれていた。
それに英語にも堪能。
虚栄心も満足させてくれる日本赤十字社社長ははまり役だった。
幕末に将軍に即位していたらどうだったかと思うが、歴史でイフを考えても仕方がない。
家達は、幸せな時代に生まれ育ったのではないか、と思う。
一瞬の輝きと、永い日陰の暮らしを過ごした慶喜とは余りにも対照的である。

参考資料:第十六代 徳川家達(祥伝社新書)樋口雄彦



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