木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

馬のいた風景~南部馬

2023年02月11日 | 小説
郷土資料館や博物館に行くと、
「いつか使うかもしれない」
と思って、必ずといっていいほど資料集を買ってしまう。
しかし、ほとんどが本棚の肥やしとなっている。
これではいけない。
ランダムに抜き出し、備忘録的に面白いな、と思った点をブログに書いていきたい。

まずは、もりおか歴史文化館の「あの日あの時の盛岡4馬のいた風景」(平成26年10月26日発行)。

「南部駒」「南部馬」と呼称される南部藩名産の馬は、南部地方が「糠部郡(ぬかのぶぐん)」と呼ばれた時代から「糠部駿馬」として広く知られていた。
平安貴族にとって、良馬の獲得は権力や財力を示すものであったので大変重要視された。
藤原氏二代藤原基衡(もとひら)は京の仏師・運慶に五十疋の糠部駿馬を贈った。
時代は下って江戸時代になると、南部藩による馬は「野馬(のま」、民有の馬は「里馬(さとうま)」に分けて厳しく管理された。
このうち、牡馬を「駒」、雌馬を「駄」と呼んだ。
さらに「馬改(うまあらため)」を置いて、上中下の三等級に区分し、髪を切り「髪印」で認識できるようにした。
範有の馬は藩内九か所に設けられた「御野(おんの)」(藩営の牧場)で育てられた。

江戸時代の馬は体高が一三〇センチくらいであったが、南部駒は一四五センチと体高が高く、見た目や気性もよかったため、憧れのブランド品であった。
南部藩は「南部馬」のブランド力を維持するため、野馬はもちろん里馬も他領への流出、あるいは他領からの馬の流入についても厳しく管理した。

ブランド力を維持するために出荷規制をかけるとは、現代でもありそうな話だ。
あと、「駒」が牡馬に対する名称だとはしらなかった。

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