木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

反射炉

2009年09月28日 | 江戸の武器
幕末の雄藩の台頭を紹介するのに必ず出てくる事項として、嘉永三年(1850年)、佐賀藩が反射炉を作ったことが述べられる。
佐賀藩に続き、長州は萩に、幕府は伊豆韮山に相次いで反射炉を作っていく。

反射炉は大砲などを鋳造するための設備であり、反射炉を持つ、というのは武器工場を持ったことと同義であった。

以上は高校のどの教科書にも載っている事柄であり、日本史を学ぶ者は誰もっている有名なものであるが、さすがに反射炉の内容まで言及している教科書は少ない。
私も反射炉について「大砲をつくるもの」という漠然としたイメージしかなく、詳しい内容はよく知らなかった。
だが、反射炉は辞書を引いても載っている。

《反射炉》金属の精錬・溶解、鉱物の培焼などに用いられる炉。燃焼と加熱物が直接触れないように燃焼室と加熱室は分かれており、ドーム形の炉頂に沿って導かれる炎と天井や壁からの輻射熱によって加熱・溶解する。耐火煉瓦によって作られ、一般には長方形。
小学館「言泉」

さすがは大きな辞書だけあって分かりやすい説明である。

当時の反射炉が現存するのは伊豆の国市にある韮山である。僅か100円の入場料を入って見学に
行くと、隣接する土産物の方が丁寧に説明をしてくれる。
現物を見ると、もやもやしていた部分が納得できた。
水力による動力確保や鉄の冷却のため、水源が豊富でないといけないなど、現地に行かなくては分からない。

韮山の反射炉は周囲に建物もないため、青空によく映える。
この製造に携わったのは、江川英龍であるが、彼の生前には完成せず、子の英敏の代になって完成した。安政四年(1857年)11月のことである。
英敏はどのような気持ちで完成した反射炉を見たのであろうか。

この反射炉では、現在フジテレビがあるお台場の砲台の大砲など、多くの大砲が製造された。
しかし、反射炉の使用は、幕末を待たず、元治元年(1864年)までで終了した。
製造に3年間かかった反射炉の使用期間はわずか7年に過ぎなかった。
しかも、各藩の反射炉で作った大砲は夷的相手よりも、国内の内乱で多く使用された。

戊申戦争の際、幕府敗戦の大きなきっかけとなったのは山崎関門を守る津藩の寝返りと言われる。山崎に設置された24ポンドカノン砲はこの韮山製であったが、夷的を想定して作られた反射炉が倒幕にひと役買ったというのはいかにも皮肉であった。








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