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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

蔦屋重三郎~江戸の版元

2012年05月20日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
江戸初期、文化の中心は上方であった。
文化後進国である江戸においても、四代将軍・家綱の明暦年間(一六五五~一六五八年)になってくると出版業が企業として成り立つようになる。
その頃はまだ京都資本系が圧倒的に優位であったが、後に江戸資本の版元も力を付け、上方系資本に対抗するようになった。
江戸の版元は、自らの利益確保のために、書物問屋地本問屋という組織を結成。時代の流れと、企業努力もあり、元禄年間位から江戸系と上方系の実力は拮抗し始め、宝暦年間(一七五一~一七六四年)には、江戸系が上方系を凌駕していった。
前出の書物問屋とは、儒学書、歴史書、医学書など固い関係の本を扱う版元で、地本問屋とは草双紙のように江戸の地で出版された地本を扱う本屋である。
有名な地本問屋としては、鶴屋喜右衛門鱗形屋孫兵衛山本九左衛門などがいる。
須原屋市兵衛
(「解体新書」「海国兵談」などを出版し、幕府から睨まれた)のように書物問屋として有名ながら、地本問屋の仲間組織に入っている者もいた。

江戸の地本問屋として現代、もっとも名が知られているのは、蔦屋重三郎であろう(蔦屋も後に書物問屋に加盟)。
レンタルショップのTUTAYAが名前の由来とした蔦屋重三郎は、寛延三年(一七五〇年)一月七日、吉原に生まれた。本名・柯理{からまる}。七歳のときに両親が離縁し、蔦屋を経営する喜多川氏に養子に行く。その頃の蔦屋は茶屋を営んでいたというが、はっきりしない。ともあれ、安永二年(一七七三年)に重三郎は吉原大門のすぐ近くで吉原のガイドブックである「吉原細見」の卸し・小売を始める。
「吉原細見」の版元は鱗形屋であり、蔦屋は鱗形屋の直営店の扱いであったが、わずか数年後の安永四年、鱗形屋が今でいう著作権問題で大打撃を受けた隙に乗じて、「吉原細見」を発行。それ以降は、鱗形屋版吉原細見と蔦屋版吉原細見が並行出版されていたが、鱗形屋が衰退し出版業界から退場していったのに従い、吉原細見だけでなく、鱗形屋の専属作家であった恋川春町などを抱えるようになった。
天明三年(一七八三年)九月、蔦屋は一流の版元が名を連ねる日本橋通油町に進出。
蔦屋に関わり深い作家としては、先ほどの恋川春町に加え、朋誠堂喜三二、山東京伝、唐来三和、十返舎一九、滝沢馬琴、絵師としては喜多川歌麿、写楽などがいる。

重三郎は、田沼時代に蔦重サロンといってもよい独自のネットワークを形成し、江戸の名プロデューサーとして名高いが、ミスも目立つ。
もっとも大きい事件は、黄表紙から引退したいと言っている山東京伝を無理やり口説いて新作を発表し、寛政の改革の筆禍に引っ掛ったことである。そのほかにも写楽の登用から蜜月関係にあった歌麿との仲に亀裂が入った挙句、鳴りもの入りの写楽もフェイドアウトしていった点、葛飾北斎の才能を開花させらなかった点などが挙げられる。

それでも重三郎に対しては称賛の声が聞こえるばかりで、非難の声は聞こえてこない。
普通の人間ならすっかり自信を失ってしまうような場面でも、重三郎は前向きである。
重三郎の軌跡を見ていると、常に何か新しいことをやらねば済まない、といった気質が見てとれる。
現状維持では、後退。前進することによってのみ、今の地位が保たれるといった心情があったに違いない。
逆境ですら変化は好ましいと思っていたのかも知れない。
過去の栄光に拘泥することなく、未来を見つめる姿。重三郎の眼の先には何が見えていたのだろう。

寛政八年五月六日朝、病の床で死期を悟った重三郎は死後の家事や妻への最期のあいさつを済ませ、昼に自分は死ぬだろうと予言。
しかし、昼を過ぎても死ななかった重三郎は「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らない」と笑ったと言われる。
少しの時間差はあったものの、その日の夕刻に死す。享年四十八歳だった。

参考
蔦屋重三郎 (講談社学術文庫) 松木寛
東京人 2007年11月号

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匠堂本舗



中條景昭の奮闘~静岡茶と旧幕臣

2011年09月23日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
静岡県は日本一のお茶の産地である。日本全体のお茶生産量の40%のシェアを占める。
(ちなみに2位は鹿児島で同20%、以下三重、京都と続く)
中国から伝来したお茶は、奈良時代には日本にも存在した。
しかし、量産されるようになったのは最近である。
知られているようで、あまり知られていないお茶の黎明期についてQ&A方式で書いてみたい。

Q1.静岡でのお茶の生産はいつからこのように盛んになったのか?

A.お茶の生産が盛んになるのは、明治に入ってからであった。これは海外との貿易が始まり、お茶の輸出が急速に拡大した事情による。輸出需要に応えるべく、これまた急速に栽培面積を増やしていったのが静岡である。
静岡県榛原郡金谷町以南に広がる牧之原台地は面積5千ヘクタールに及び、静岡のお茶の生産面積の4分の1を占める。牧之原は古くは布引原とも呼ばれ、荒涼の地であった。
ここに開墾団として入ったのが、徳川慶喜の護衛を目的として作られた幕府精鋭隊の武士たちであった。精鋭隊の武士は、徳川宗家を引き継いだ家達が駿府に赴くのに従い、久能山付近に住んでいたが、無禄移住であり、自分たちの飯の種を自ら見つける必要性があった。中條景昭を隊長として、彼ら二百二十戸が牧之原に移ったのは、明治二年(1869年)。この年から静岡茶の歴史は新たな一歩を踏み出したと言える。

Q2.誰が牧之原への移住を言い出したか?

A.勝海舟のアイデアであると書いてある記事や文献を見ることがあるが、これは完全に間違い。
実際は松岡神社までできている松岡萬が大井川水路を視察に行ったときに見つけたのか、あるいは後に静岡県知事になる関口隆吉が見つけたのか、景昭が言いだしたのか諸説あるが、単独の意見ではなく新番組(旧精鋭隊)の内部で合議の結果、ここを開墾するのがよかろうという結論に達したと思われる。景昭は勝海舟の許しを得て、この荒れ果てた地を貰い受ける。
明治三年には大谷内竜五郎率いる彰義隊の残党八十五戸が入植し、三百戸以上の人々が牧之原に入った。
開墾した地で栽培する作物にお茶を選んだのは、お茶の輸出増加を見据えた上での勝海舟の卓見であった。

Q3.牧之原のお茶は大井川人夫が作ったというのは本当か?

A.勝海舟の話と同様、これもたまに聞く話である。
大井川越制度の廃止により、職を失った人夫は千三百人と言われる。彼らの救済に奔走したのが総代・仲田源蔵である。仲田の努力に共鳴した丸尾文六らも現れ、南部地帯三百町歩に百戸が入植する運びになった。しかし、支度金が支給されるとその中の六十七戸(!)はどこかに逃げてしまい、実際に入植したのは三十三戸であった。彼らは明治六年までに三十九町歩を開墾したが、牧之原の一部だけであり、牧之原のお茶は大井川人夫が作ったというのは、いかにも大袈裟である。

Q4.では、牧之原のお茶――静岡のお茶――の歴史は旧幕臣が作ったのか?

A.開墾団は、語り草にもなった開墾に当たって刀を差しながら鍬を持ったというように武士根性が抜けきれず、また後に資金運営のために作った笱美館の不正経理からの失敗のように、武士の商法でも失敗を重ねた。
静岡茶(荒茶)の生産量は明治16年2,710トン、明治23年5,411トン、明治43年10,128トン、大正9年14,666トンと飛躍的に増えていくが、逆に牧之原開墾団員の数は明治16年までに3分の1に激減、明治30年に60戸、昭和5年に16戸、昭和33年に10戸となってしまった。
歴史的に見ると、旧幕臣の試みに刺激を受けた周辺の農家が静岡茶を作ったというのが実際のところだ。
しかし、旧幕臣が静岡茶の黎明期を作ったのは紛れもない事実である。
中條景昭は明治11年には、将来を見据えて共同製茶工場設立を画策した。実際に工場が造られたのは、景昭の死後の明治30年であるが、これは景昭に先見の明があったことの証左である。

住み慣れた江戸を離れ、未開の地とも言える牧之原台地の固い土と格闘した開墾団の意気込みを思うと、胸に迫るものがある。



大井川を望む屋敷跡に建てられた中條景昭像

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山本周五郎氏の言葉

2011年06月20日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
自宅の近所にまぼろしのラーメン屋がある。
いつ行っても閉まっているのだが、ごくまれに開いている時があると思うと、そんな日は行列が出来ている。
いろいろ調べてみると、メニューが塩ラーメンしかない店で、雑誌に紹介されたこともあるらしい。
一回、行ってみたいと思うものの、いつ行っても開いていない。
客に権利があるように、店主の側にも当然権利はある訳で、もっと長く営業しろなどとは言えない。
料理に関してはアマチュアの私が言うのもおこがましいのかも知れないが、飲食店の店主がもっともうれしい瞬間は、自分の作った料理をお客さんが心から喜んでくれることではないだろうか。
種々の理由はあるのだろうけれど、冒頭のまぼろしのラーメン屋さんは、その至福の機会を自ら少なくしている。
もちろん、実はまずかった、などというなら、話は全く別なのだが。

先日、「人は負けながら勝つのがいい」という山本周五郎氏のエッセイを読んだ。

私がたとえば『将門』を書くといたします。私が『将門』の伝記の中で、私がこの分はかきたいと思うからこそ、―――現在、生活している最大多数の人たちに訴えて、ともに共感をよびたい、というテーマが見つかったからこそ、―――小説を書くわけでございます。
話がワキ道にそれるかも知れませんが、私は、自分がどうしても書きたいと思うテーマ、これだけは書かずにおられない、というテーマがない限りは、ぜったいに筆をとったことがありません。それが小説だと思うんです。


人が仕事をするのは、生きる糧を得るためではなく、自己を証明するためである。
料理人は料理で、画家は絵で、物書きは文で自己を主張する。
高尚な仕事も、低級な仕事もない。
与えられた仕事で困難が起きるときもあれば、絶頂のときもある。そんなとき、人間性が現れる。
小説を書く者は、小説の中で自己を証明すべきである。

山本周五郎氏は、「文学は最大多数の庶民に仕える」とも言っている。
小説を書く者は、「分かってくれる人だけが分かってくれればいい」という態度ではいけないと自戒した。
自分が胸に抱いた感動をどれだけ多くの人とシェアできるか。
成功したいとか、賞を取りたい、などということではなく、多くの人と感動を共にできれば、自ずと道はついてくるものなのだろう。

人生は負けながら勝つのがいい(山本周五郎)大和出版

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山岡鉄舟~西郷隆盛との会見

2011年05月14日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
山岡鉄舟(山岡鉄太郎高歩{たかゆき})天保七年(1836)~明治21年(1888)は、剣豪として名高いが、ひとりも人を斬ったことのない、不殺の剣士でもある。
北辰一刀流の遣い手として、千葉周作の玄武館や、幕府の講武所で剣を学び、頭角を現した。
その一生を見ていくと、驚くほどの頑固さと、驚くほどの素直さが同居しているのが分かる。
凝り性で、自分が信じた道は、人から何を言われようと曲げようとしないのであるが、間違いが分かれば素直に頭を下げることもできる人物だった。

鉄舟の名を一気に有名にしたのは、慶応四年三月八日、駿府伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた西郷隆盛との会見である。
JR静岡駅から歩いて5分ほど行ったところに隆盛と鉄舟の会見碑がひっそりと建っている。
場所は、旧東海道である伝馬町通りと北街道が交わる江川町交差点の手前、ペガサードというビルの前になる。
この会見は、勝海舟の使いであって、鉄舟には全権は委任されてはいなかったが、強い信念を持った鉄舟の態度は、権限とか責任などの枠を超えて、隆盛の胸を強く打った。
その証拠に西郷側から提示された五つの条件のうち、徳川慶喜を備前に預けるという項目についての譲歩を得ている。

この会見の内容については、鉄舟が岩倉具視の求めに応じて書いた「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ赴イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」に詳しい。
何事も大げさに言う癖のある勝海舟の書であったら、割り引いて読まなければならないのだろうが、鉄舟の文であるから、そのまま素直に読んでいいと思う。下記が部分部分の抜粋である。

大総督府の本営に至るまでに、もし自分の命を奪う者があったなら、非はその者にある。わたしは国家百万の生霊に代わってことに及ぶのであるから、生命を捨てることになろうと、それはもとよりわたしの望むところである。(略)

六郷川を渡ればすでに官軍の先鋒が達しており、左右に銃隊が並ぶ。その中央を通っていったのだが、止める者はいなかった。隊長の宿舎と思われる家に至ったので、案内を請わず中に入り、隊長を探したところ、そう思われる人がいた。
大声で「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎。大総督府に行く!」と断ると、その人は「徳川慶喜、徳川慶喜」と二度ほど小声で言うのみ。この家に居合わせたのは、およそ百人ほどと思われたが、誰もなんとも言わない。ただ、わたしのほうを見ているばかりである。(略)

(静岡にて)しばらくして、西郷氏がわたしに言ったのは、「先生は官軍の陣営を破ってここに来ました。本来なら捕縛すべきところなれども、よしておきましょう」というもの。わたしが「縛につくのは望むところです。早く縛ってもらいましょう」と答えると、西郷氏は笑って「まずは酒を酌みましょう」と言う。数杯を傾けて暇を告げれば、西郷氏は大総督府陣営の通行手形をくれたので、これをもらって退去した。(略)

(後日)大総督府の参謀より、急ぎの用があるので出頭すべし、とのお達しがあった。わたしが出頭すると、村田新八が出て来て、「先日、官軍の陣営をあなたは勝手に通っていった。その旨を先鋒隊が知らせてきたので、俺と中村半次郎で追いかけて斬り殺そうとしたが、あなたはとっとと西郷ところへ行って面会してしまったので斬り損じてしまった。あまりの口惜しさに呼び出してこのことを伝えたかっただけだ。別に御用の向きはない」と言う。わたしは「それはそうであろう。わたしは江戸っ子で足は当然速いのだ。あなたがたは田舎者でのろま男だから、わたしの速さにはとても及ばないだろう」と言って、ともに大笑いして別れた。

この文から読み取れるのは、武士道というよりもフェアプレイの精神ではないだろうか。事の是非は是非として、後に一塵の遺恨も残さない。
そして、命を賭けて、一大事をなそうとする精神。
ともに、現代に欠けているものに思われてならない。

西郷隆盛に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり」と言わせ(西郷南洲遺訓)、勝海舟に「山岡鉄舟も大久保一翁も、ともに熱性で、切迫のほうだったらから、かわいそうに若死にをした。おれはただずるいから、こんなに長生きしとるのさ」(氷川清夜)と言わせた鉄舟。
ふたりの言葉通り、鉄舟は金とも名誉とも無縁に生きた。
晩年は剣と禅に深く関わって生きたが、単なる朴念仁ではなかった。落語家の三遊亭円長をはじめとした幅広い交友関係もあり、ユーモアの感覚も持ち合わせていた。
鉄舟に金千円を貸した松崎某は、後日、一筆取っていないことに気づき、鉄舟に借用書を書いてくれるように頼んだ。
そこで鉄舟が書いたのが下記の文句である。

なくて七癖、わたしのくせは、借りりゃ返すのがいやになる
右に記したような癖があるから、俺の借金の証文なんて意味がないが、もらうのだったら多少のところは構わない


松崎某は借金を踏み倒されるのかと、愕然として知人に相談したところ、知人はあの山岡鉄舟が書いた洒脱の借用書は価値があると言い、千円で買いたいと言い出す。
松崎某はそれを聞いて、この証書を家宝とした。後日、鉄舟が返金に来ると、金はいらないから、この書は手元に留めたいと言う。鉄舟は仕方なく、その書に加え、数千枚の墨跡を書いて渡したということである。

困難も人のせいだと思うとたまらないが、自分の修業と思えば自然と楽土にいるように思えるものだ(鉄舟)

参考文献:最後のサムライ 山岡鉄舟(教育評論社)
       図説幕末志士199 (学研)
       氷川清話(角川ソフィア文庫)
       西郷南洲遺訓(岩波新書)
       戊申戦争(中公新書) 佐々木克著


伝馬町の鉄舟・隆盛の会見碑


鉄舟の書になる清水港の壮士の墓


鉄舟の父は飛騨高山の郡代であった。鉄舟は十代半ばまで高山に住んだ。

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ニコライ祭

2011年02月16日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
今日はニコライ祭が行われる日である。

東京のお茶の水にニコライ堂という教会がある。
設計は、ジョサイア・コンドル。
日本でも人気の高い設計家の手による教会は建物としての認知度が高いが、冠となったニコライの名を知る人は少なくなった。
このニコライは幕末から明治にかけてキリスト教の一派である正教会の教えを広めるために来日したロシアの宗教家である。
ニコライが初来日したのは、1861年。江戸時代が終焉する7年前。まさに、幕末の混乱期である。
ニコライは、鋭い観察眼と正確な情報処理能力を持っていた。
日本人の宗教観などについても、正鵠を得た意見を述べており、徳川政権下における一般市民についての考察も興味深い。


「これが専制政治と言えるだろうか? 一切抗言できぬ服従と盲従はどこにあるのだろう? 試みにこの国のさまざまな階層の人々と話を交わしてみるがよい。片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう」

「民衆について言うならば、日本の民衆は、ヨーロッパの多くの国民に比べてはるかに条件はよく、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これらの諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだ不満だったと言うのだ! 商人はあれやこれやの税のことで不満を言い(実際にはそおの税は決して重くはないのだ)、農民は年貢の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれもが役人を軽蔑していて、「連中ときたら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは禄でなしだ」と言っている。
 そして民衆はおしなべてこの国の貧しさの責任は政府にあると、口をそろえて非難している。そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、毎夜、歓楽街は楽と踊りとで賑わいにあふれているのである」


このニコライの論文は1869年(明治二年)に書かれたものである。その当時、ニコライが滞在していたのは、函館であったが、北の地にあって、日本を見る目は驚くほど正確である。
上に引用した文も、現在でも通用する部分の多い日本人論ではないだろうか。

幕末から明治にかけて、日本に来た外国人は、多くがキラキラと輝くような使命感を持っていた。
物事が始まる黎明期の、ワクワク感が満ちていたのである。
日本における文化面の向上は、ニコライのような外国人の力が大きかった。
日本人も使命感の他に大きすぎる野心を持った人間が多かったが、それでも明治は活況に満ちていた時代ということができよう。
明治に比べて、現代日本の閉塞感はいったい、何なんだろう。

正教伝道の使命に燃えたニコライは、母国ロシアが日本と抗戦している間も日本に留まり、明治最後の年となった明治45年(=大正元年・1912年)の今日、永眠し、谷中墓地に葬られた。

ニコライの見た幕末日本 ニコライ(中村健之助訳) 講談社学術文庫

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唐人お吉の悲劇

2010年09月03日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
愛知県知多の内海海岸に唐人お吉の像が建っている。

お吉というと米国領事ハリスと愛人契約を結び、その後はすさんだ人生を歩んだ下田の、あの「お吉」のことであろうが、なぜ、この内海海岸に像が?
郷土史によると、お吉は内海に生まれ、四歳のときに、家族とともに下田に移り住んだとされている。
像の前にある「白砂の湯」のフロントに尋ねると、お吉の年表も置いてあって、お吉が内海生まれであることを説明してくれた。
文献を当たってみると、これは昭和14年に名古屋の尾崎久弥氏が西岸寺の過去帳や明治初期の戸籍台帳から調べた結果である。
しかし、西岸寺の過去帳説を信じ、年代別に並べると、お吉の母である、きわはお吉が生まれる数十年前に死亡しているなど時系列的に解決できない矛盾点も出てくる。過去帳の人物は同名別人である可能性も高い。
これは簡単には結論付けられないし、お吉の生誕地が本題ではないので、とりあえず保留。

では、本題。
お吉はなぜ入水自殺しなければならなかったのか?

その前に、簡単にお吉の生涯について言及したい。

日米通商条約締結のため日本に来ていた総領事タウゼント・ハリスは下田に滞在中、看護婦を幕府に要請。
看護婦を妾と勘違いした幕府は船大工の娘、お吉に白羽の矢を立てた。
当時、鶴松という恋人のあったお吉だが、組頭伊佐新次郎の説得に、涙ながら同意し、ハリスのもとに出向く。
3日間という短期間で、お払い箱になってしまったお吉であったが、その後は異人に肌を許したということで、誰からも白い目を向けられ、次第に自暴自棄になり酒に溺れていく。
14年後、ふとしたことで鶴松と再会したお吉は、鶴松と所帯を持つが、4年後に破局。
それからは、お吉はさらに酒乱の度合いを濃くし、最晩年には物乞いのような境遇になりながら、入水自殺した。

このような悲劇のヒロインに仕立てたのは、昭和初期の小説家十一谷義三郎で、「時の敗者・唐人お吉」の題で都新聞(現在の東京新聞)に連載するや、大ベストセラーとなった。
このヒットに目をつけたのが東海汽船で、一万冊を購入し、乗船客に配った。
さらに歌舞伎で取り上げられるや、ますますヒット。
それまでは秘境だった下田が一気に東京の奥座敷と呼ばれるようになった。

上に挙げたお吉の説明は、半分は脚色されたものであろうが、大まかなところは事実である。
お吉と同時期、ハリスの通訳であるヒュースケンには、お福という15歳の娘が「看護婦」として遣わされている。
そのとき、名主が彼女らを諭した古文書が残っているが、それによると、「妊娠したときはすぐに伝えるように」という露骨な項目もあり、目的は明らかである。
ハリスに仕えた女性はお吉を含め3人、ヒュースケンには4人である。
お吉以外の6人は小説にはならず、お吉だけにスポットライトが当たったのは、最期が哀れだったからであろう。

お吉はなかなか商才があったらしく、そこそこ小さな成功を手にするが、酒によってその成功をフイにしてしまう。
お吉を酒色に駆り立てたのは、ハリスとの一件であったのは想像に難くない。
確かに、当時とすれば現代からは想像もできない悲惨なことだったのかも知れない。
大きな挫折だっただろう。

異人に仕えた人間は、明治を迎えれば飛躍的に多くなった。
その中にあっても、お吉は一回の失敗に固執した。
自分は特別だと思う自尊心と、挫折感が複雑に交差していたと思う。
その感情ゆえ、彼女は酒におぼれ、物乞いに身をやつし、入水自殺をせざるを得なかった。
きっと、生真面目な性格だったのではないかと思うが、少し息を抜いて、発想転換できればここまで悲劇にはならなかったはずだ。
言うのは易く、行うのは難いのだけれど。


(参考文献)
ハリスとヒュースケン 唐人お吉(下田開国博物館)・尾形征己著
幕末開港の町 下田 (下田開国博物館)・肥田実著
静岡県茶産地史 (農文協) 大石貞男著
幕末・明治の写真(ちくま学芸文庫) 小沢健志著


内海海岸のお吉像


アップにしてみました


お吉19歳の写真と言われるが、残念ながら別人である

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田沼意次の遺言

2010年07月11日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
駿河湾からほど遠くない地に相良資料館が建つ。
遠州相良は、かつて田沼意次が領主を務めた土地で、この資料館が建っているのは、相良城の本丸があった場所である。
私の中では、田沼意次というと、いまも田沼町という地名が残る栃木のイメージが強いが、実は静岡のほうが所縁が深い。

意次と忠臣蔵の主要人物、大石内蔵助、吉良上野介には共通点がある。
それは、三人とも製塩業に力を入れていたことである。
赤穂の塩は現在も有名だが、相良や吉良の塩は今は聞かなくなった。
上野介は赤穂の塩に妬みがあった、という説もあるが、赤穂の塩はそれだけ優秀だったのであろうか。

意次は遺言として家訓を残している。
七条から成り、徳川に対する忠誠や、文武の奨励、孝行を行うことなどを説いているが、別枠として書き記している七条は意次の真骨頂である。

勝手元不如意で、貯えなきは、一朝事ある時役に立たない。御軍用にさしつかえ武道を失い、領地頂戴の身の不面目これに過ぎるものはない。

意次に対する悪評は松平定信が悪意を持って流布したというのが現在の定説ではあるが、意次はこのように商人的な考え方を持つ、当時としては異色の武士だったことには変わりがない。
大奥が騒ぐような色男だったとか、誰彼となく気さくに声を掛けたなどという話も伝わっているが真偽はよく分からない。
ただ、田沼の血筋は優秀だったのは紛れもない事実で、定信が執念かけて排斥しようとした田沼家はお家断絶になることもなく、一度は奥州に追いやられたものの、後には相良に復帰している。
そして、幕末には田沼意尊(おきたか)が若年寄まで進んでいる。
この意尊は、天狗党の乱制圧の指揮官であるが、天狗党員をニシン倉に詰め込み、幕末史最大とも言える斬殺を指示した人間である。
だが、政治能力には長けていて、上総小久保藩に転封後も藩知事となり、さらに、女婿である望(のぞみ)は、明治天皇の侍従を務め、貴族院議員となっている。



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亀田鵬斎

2010年07月04日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
江戸時代に亀田鵬斎という人物がいた。
儒学者で書家として有名だったが、今日的な考えでいけば、「大馬鹿野郎」である。
浅間山噴火の際には私財を投げ打って被災者の救済に当たるし、赤穂浪士の際にはこれまた私財をはたいて泉岳寺に石碑を立てている。
独り身ではなく、家には妻も子もいる身である。
有り余る金ならともかく、使ってしまえば明日からの米にも事欠く大事な金子である。
それを妻子に相談もなく、自分の義と思う事柄にポンポンと使ってしまう。
「いい人」には違いない。
だが、傍からみれば美談でも、当事者では堪らない。

この鵬斎に次のようなエピソードがある。
年末に集金のために越後に行っていた鵬斎は、江戸も間近となった浦和で、泊まった宿が異様に暗い雰囲気に包まれているのを感じ、主人に仔細を問う。
主人は答えて曰く、借金のかたに娘を売る必要がある、と。
借金の額を聞くと、百両とのこと。
このとき、鵬斎の財布にはきっちり百両が入っていた。
鵬斎は、一瞬躊躇したものの、有り金全部を置いて宿を逃げ出すように飛び出す。
家に帰った鵬斎は、妻にもさすがに本当のことは言えずに、布団を被って寝込んだ振りをする。
そこに友人の著名な画家である酒井抱一が来て、問いただすと、さすがの鵬斎も嘘をつけず、本当のこと話す。
すると、抱一は、「さすがは鵬斎である」といって、年末の払いなどをすべて肩代わりししたので、鵬斎はやっと年を越せたそうである。

美談である。
だが、自分が鵬斎の妻の立場だったらどうであろう。
鵬斎が出した百両の金で浦和の宿の一家は助かったが、そのあおりを受けて、鵬斎の一家は飢え死にしてしまうかも知れない。

ただ考えてみると、集金から帰ってきた主人が金も渡さずに黙って寝込んでいる。
それまでの鵬斎の心情を知っている妻からすれば、舌打ちはするが、「またか」と思ったに違いない。
家計費にも困るのは明らかであるのに、夫を詰問して「改宗」させようとしない妻も「馬鹿者」である。

抱一というのも「馬鹿者」である。
貸すのではなく、惜しげもなく自分の金を与える。
利益などあろうはずもないのに、損な行為を続けている。

現代には、ホリエモンなる怪獣もいた。
ホリエモンによると「金こそすべてのパワー」だそうである。
そう考えたら無償で金を提供するなど、自己のパワー低下を招くだけに過ぎない。
きっと、馬鹿だったのであろう。

江戸時代、亀田鵬斎という大馬鹿がいて、妻も大馬鹿で、さらには友人にも酒井抱一という大馬鹿がいたという事実。
現代は利口な者ばかり。
どちらが社会として成熟していて、どちらが幸福なのだろう。
江戸時代をうらやましげな目で見てしまうのは私だけだろうか。

ここに生きる道がある 花岡大学 PHP

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遺骨とともに酒を呑む~蒲生君平

2010年05月31日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
寛政の三奇人と言われた一人に蒲生君平という尊王論者がいる。
奇人と呼ばれるだけあって、種々のエピソードには事欠かない。
その中で、印象に残るのは、親友であった良寿和尚との別れの場面である。

良寿和尚と君平は、来年の春には天橋立へ行って桃の花でも見ようと約束していた。
だが、その冬のうちに、和尚はあっけなくこの世を去ってしまった。
君平は、桃の花が咲くころになるといてもたってもいられなくなり、江戸を経って、天橋立を訪れた。
懐には和尚の遺骨数片が入った小箱を入れている。
橋立に来て舟に乗った君平は二人分の舟賃を差し出す。
船頭はいぶかしんで、一人分で結構です、と断るが、君平は「この箱には骨にはなってしまったが、わたしの友人がいる。だから舟賃はふたり分なのだ」と言って、二人分を支払った。
そして、松の下に座った君平は、「良寿との、みたがっていた天橋立だ」と言って、酒を飲みながら泣いた。
道行く人は何事か、と君平のことをじろじろ眺めたが、君平は一向に気にしないで、酒を飲み続け、最後に、小箱の中に石を詰め、海に沈めたということである。

確かに奇行である。
いずれにせよ、本人はそうせざるを得ない切羽詰った感情に支配されている。
果たして、自分が死んだとき、このような行動を起こしてくれる友人が何人いるだろうか。
あるいは、友人が死んだとき、自分はこのような切羽詰った感情に押されて奇行ともとれる行いを自然に取れるだろうか。
君子の交わりは淡い、と言い、べたべたした関係だけが本当の友情とも思わないが、一方で、こういった切ない感情を引き起こす友情もある。
あるいは、男女間の愛情でもよい。
甘い感傷とか、作為的である、などと批判する人もいるかも知れない。
人にはスタイルとか生き方というものがあるから、その批判も間違いではない。
だが、少なくとも、わたしは君平の行為をシニカルに批判する側には回りたくない。


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妻に土下座した勘定奉行

2010年05月23日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
江戸時代は男性上位で、特に武家階級においては、女性軽視の傾向が強かったと思われがちである。
だが、江戸など男性の人口が多い地区では、町民階級ではカミさん連中の力は男性を凌駕した。
武士においては、確かに男性の力が強かったのであるが、今以上にリベラルな考えを持った人物もいた。
川路左衛門尉聖謨(かわじとしあきら)という人物もその一人である。
幕末期、勘定奉行を勤めた人だが、ロシアやアメリカとの交渉において力を発揮した傑物である。
ロシアの代表であるプチャーチンと下田で交渉した際、雑談になると「自分の妻は江戸で一番美しい女性なので、こうして出張していると思い出して困ります」などと発言している。
この川路が、妻の佐登に平伏したことがある。
この事件(?)については、吉村昭の小説が簡潔に書き表しているので、引用したい。

弘化四年十二月中旬、かれは奈良奉行として一事件の裁きをした。一人の女が夫以外の男と関係をもち、そのもつれで夫を殺害し、捕らえられた。川路は、そのような色恋沙汰で事件をおこした女はさぞ美しいだろうと想像していたが、白州にすえられていた女は、稀なほどの醜女であった。
かれは、このような女でも欲情のもつれで一人の男を死に追いやったことに驚き、美貌の佐登を妻としている自分の幸せをあらためて強く感じた。
裁きを終えたかれは、居室にいる佐登の前にゆくと平伏し、ありがたや、ありがたやと何度も頭を下げた。佐登は大いに驚き、精神錯乱をおこしたかと不安になってただすと、かれは醜女のおかした事件を口にし、美しい佐登を妻にしていることがもったいない、と、さらに頭をさげつづけた。その姿に、佐登をはじめ居合わせた用人たちは、息をつまらせて笑った。


佐登という女性が実際に江戸小町になるほど美しかったのかどうか分からない。
焦点は佐登の容姿ではなく、のろけともとれるような妻の長所をほめる発言を平然と行い、そして、妻にも頭を下げる左衛門尉の態度である。
そこには、作為がない。
変なプライドとか、照れとか、駆け引きなどを超越して、ただ妻に頭を下げる左衛門尉の態度は凄いと思う。
相手が配偶者でなく他人であっても、自分の思いをここまで素直に吐きだすのは、難しい。
それだけに、左衛門尉の行動は、貴重なものに思われる。


吉村昭「落日の宴」講談社


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