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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

ポンペの晩年

2013年04月05日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
ポンペは日本の医学界にとっての大恩人である。
ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトという長い名前のポンペは幕末、幕府から長崎に招聘されたオランダ人である。

医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。

長崎大学医学部の碑板にも残されているポンペがこのような発言をしたのは、彼がまだ30歳代前半だった頃である。
残っている写真を見ると、随分貫禄があるようで、とても30歳そこそことは思えない。
日本に来た頃のポンペの医師としてのキャリアもそれほどではなかったと考えられるが、頑固爺のような強硬さをもって、単身でポンペは日本人たちと渡り歩いている。

その後、ポンペはオランダに帰国し、結婚。無事子供も生まれている。
榎本武揚は箱館に籠ってまで政府軍に一矢報いようとした人物であるが、赦されて明治七年当時はロシアとの国交に当たっていた。
その頃、ポンペが再び活躍している。

かれ(榎本武揚)は、ポンペが外国の政治情勢に精通しているのを知り、旧知の間柄であることからロシアに招いた。
ポンペは、榎本の依頼でロシア側の動きを探って樺太・千島交換条約の締結に貢献し、その功によって日本政府から勲四等旭日小授章を贈られた。


ここまでは非常に順調であったが、晩年は悲惨である。

その頃(日本から勲章を貰った頃)から、かれは医学の教育研究からはなれて牡蠣の養殖事業に専念するようになり、ベルギーとオランダの間を往き来した。
事業は順調であったが、晩年に至って失敗し、多額の負債を負って親類縁者に迷惑をかけ、非難された。
一九〇八年(明治四十一年)十月三日、かれは貧困の中でブリュッセルで死亡した。七十九歳であった。


ここまで見てくると、長崎大学の碑にあるポンペの言葉というのも若輩者の青臭い戯言であるような気もしてくるのである。
よく言われるように、明治維新の頃の主役級は驚くほど若い連中であった。
海外から招かれた講師陣も若かった。
ポンペにどのような心理的変化があったのかは知らない。
人生の達観者のように思えたポンペが人生の最期において、借金まみれというあまりにも俗人じみた環境に置かれてしまったのは、人生の怖さを感じる。

参考:暁の旅人(吉村昭)講談社

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与謝野晶子と写真

2012年12月07日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
私が繰り返し観た映画で一番回数が多いのは「ブラックレイン」だと思う。
マイケル・ダグラス、高倉健、アンディ・ガルシア、松田優作といった俳優陣の名演技、脚本の確かさ、日本を舞台にした親近感などもあるのだろうが、なんといっても、音楽がいい。
この音楽を担当したのは、ハンス・ジマー。
「クール・ランニング」「グラディエーター」「ブラックホークダウン」など数多くの映画の中にとてもいい音楽を提供している。

いきなり映画の話から入ってしまったが、歴史上の人物でも、人気の高い人には、いい写真が付きものだ。
以前にも書いたが、たとえば、松平容保。
一番有名な例の烏帽子姿の写真は、悲劇の主人公としての容保をすべて表している。
坂本龍馬の懐手をしながら立っている写真もしかり。
寝起きを起こされて眠かっただけとも伝えられているし、近眼せいもあったようだが、目を細めて立つ姿は未来を予見しようとしている姿にも見える。

逆の例もある。
「汚れちまった悲しみに」の中原中也はあの詩のように純真無垢な青年ではなかったと思うのだが、これまた例の帽子を被った写真によって、名声を高めたような気がする。

与謝野晶子、詩人、堺生まれ。明治11年(1878年)12月7日~昭和17年(1942年)5月29日。
今日、12月7日は与謝野晶子の生まれた日である。

晶子はバイタリティの人である。
12人の子供を産み、残した詩は5万首以上。
お茶ノ水にある専門学校・文化学院の創始者の一人でもある。

晶子は先に述べた人たちのような代表的な「これ」といった一葉がなかった。
今でも人気のある晶子であるが、「ベストショット」があったら、もっと人気があったに違いない。
なにしろ、

柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君

と詠む晶子である。
中原中也ばりの写真が残っていたら、男として「何か」を思わない人間は少数派だと思う。

ちなみに、夫・与謝野鉄幹は下戸に近かった。
晶子はかなり強かった。
「飲んでも酔わないし、旨くないもから、酒は飲まない」と言っていたそうだ。
なんとなく、与謝野家の位置関係を暗示しているような気がする言葉だ。

三田村鳶魚の本を読んでいたら、偶然、晶子の話が出てきた。
東京に出てきた晶子は、セイロに乗ったザルそばの食べ方が分からず、汁を蕎麦の上に全部掛けてしまった。
当然、下から汁が漏れて困ったそうだ。
当惑して「ワヤやわ」と関西弁で叫んでいる晶子の姿が目に浮かぶようだ。


出回っているのが、この写真だったら、まだいいような気がする。

文化学院による「与謝野晶子の履歴書」

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野口英世とメリー・ダージス

2012年11月25日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
己に自信のある者ほど、他人を頼らない。
けれども自信と劣等感は表裏一体である。
豪放磊落であるように見える人が、実は繊細な神経の持ち主だったという例などはよく聞くところだ。

野口英世。
この人ほど、自信と劣等感の中で揺れ動いた人もいないのではないだろうか。
心の叫びがまるまる外に聞こえてしまうような人だったと思う。
有名なところでは幼児の時に囲炉裏に手を突っ込んでしまい、火傷のせいで左手の指が全てくっ付いた状態になってしまった。
周囲からは「手ん棒」とからかわれた。
成人後、指を離す手術を行って貰ったことから、英世は医学への道を歩もうとするが、途中から細菌学者としての道を歩む。

化学しろ、細菌学にしろ、気が遠くなるような失敗の上に、ごくごく少ない成功が得られる分野だ。
猪苗代出身の野口英世には、粘り強い東北の血が伝わっていたのだろう。
「ヒデヨはいつ寝ているんだろう」
と周囲に言われるほど、寸暇を惜しんで行った地道な試験の後に、英世はアメリカで学者としての名声を轟かせていく。

英世の妻はメリー・ロレッタ・ダージス。通称、メージー。貧しいアイリッシュ系の移民の娘であった。
メージーには悪妻説も付きまとった。ひどいものになると、娼婦だったなどという噂も飛び交う。
だが、英世がアフリカに行き、黄熱病に罹った英世の手紙によって、メージーが悪妻であったかどうか分かる。

1928年4月5日
しばらく手紙が来ないので心配している。
どうしているか、すぐに電報で知らせてほしい(後略)。

1928年4月7日
今、満月だ。研究所から帰りながらあなたのことを思って。とても悲しい。でも、それも、もう終わり。心配しないで(後略)。


1928年4月10日
あなたの電報と手紙が届いて、とても嬉しかった。あなたが元気でアンディと一緒なのが嬉しい。彼もあなたも十分気をつけてもらいたい。仕事は難しいが、元気だ。五月中頃まで、ここにいるだろう。


夫がこんな手紙を出す相手が悪妻である訳がない。
もしかしたら、世間の言うところの『良妻』とはズレがあったかもしれない。
それでも、世間の『良妻』が自分にとっての『良妻』とは限らない。
人生の最期に「いいパートナーだった」と素直に言えるなら、その夫婦は素晴らしい関係にあったと思う。

野口英世は聖人君子ではなかった。
若い頃には放蕩もしたし、ロックフェラー研究場では助手との不倫も噂された。
助手の名は、エブリン・ティルディン。
後にノースウエスタン大学医学部の教授となり、一生を独身を通した女性だ。
不倫の噂の真偽はさておき、背の高いマサチューセッツ生まれのアメリカ娘は、英世に心酔した。

メリーも英世の死後は、悲しみのあまり、常軌を逸したような行動をとっている。
東洋の小男のどこにこんなに西欧女性を夢中にさせる魅力があったのだろう。
外見的魅力ではない。
仕事に集中して取り組む姿勢、生き方そのものにカリスマ的な魅力があったに違いない。


メリー・ロレッタ・ダージス

参考:野口英世とメリー・ダージス 飯沼信子 (水曜社)


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浜野炬随~努力は裏切らない?

2012年11月15日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
二代目・浜野炬随(はまのくずい・はまののりゆき)。
江戸時代の刀剣装飾職人(彫物師)である。
父親である初代・浜野炬随は名人として名高かったが若き日の二代目は生まれつき不器用で、彫ったものはわずかに万屋新兵衛のみが買い取ってくれていた。
だが万屋もついに我慢ができず、「もう彫物師など止めたほうがいい」と厳しく忠告した。
ショックを受けた炬随は絶望のあまり自害しようとしたが、その試みを母親に見破られてしまう。
母親は、
「死ぬのは構わないが、いまはのきわに土産として母に観音像を彫りなさい」と命ずる。
炬随はこの世で最後の仕事と思い、寝食も忘れて一心不乱に仏像を彫りあげた。
その観音像を見た母親は満足げに、
「この像を万屋に持って行きなさい。値は三十両。一文もまけてはなりません」
と告げる。
言われた通りにした炬随であるが、一目観音像を見た万屋は、
「まだ先代の彫った像が残っていたのですか。先代の作品なら三十両は安いものだ」
と言った。
「いえ、その像はわたしが彫ったものです」
と炬随が事情を話すと、まるまる三十両での買い取りを約束した万屋は、
「人間死ぬ気になってやればできるものだ」と感心し、大化けした炬随の成長を喜んだと言う。

よく「努力は裏切らない」という言葉を聞く。
これは嘘だ。
「願い続ければ必ず夢は叶う」が嘘のように。
たとえどんなに努力しても目に見えるところ=結果、として現れてこなければ全く意味がない。
「努力すること」だけでは不十分で「必死に努力する」ことが成功の条件なのだろう。
夢だってただ長く持ち続けていればいいというものではない。

わたしの例で言うと、昔書いていたものを読み返すとよく分かる。
現地にも何度も行って取材をし、丹念に文献を調べ、必要があれば専門家に手紙を書いた。
その上で十分時間をかけて執筆したのだが、肝心のストーリー運びで失敗している。
結局「自分はこれだけ時間をかけて、これだけ努力したので大丈夫だろう」という気持ちの甘え、自己満足があったのだ。
受験生でも「図書館に座っている」という行為に満足してぼーっとしている時間の長い人を見かける(わたしもそのひとりだったが)。
行為自体に満足してしまって、決意と言うか、必死さが足りないのである。

炬随も努力はしていたに違いない。
でも気持ちに甘えがあった。
「今日できなくても明日がある」
「明日でなくともあさってがある」
その繰り返し。
わたしを含め、多くの人がそう思いがちだ。
人生は永遠に続く訳ではない。
毎日全力疾走していたのでは続かない。
でもダラダラと歩いているばかりでは、いつしか走ることもできなくなってしまう。
走れなくなって初めて呆然とするだけだ。
いつ走るかは人によって違う。
わたしにとっては、「今」が走るとき。

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金原明善~少年の眼差し

2012年10月21日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
司馬遼太郎の作品を読んでいていつも思うことがある。
司馬作品に出てくる主人公は大概が生まれつきのように自分に自信があって、迷わず自分の道を突き進むような人間が多い。
迷いも葛藤もなく、自分の道を邁進するような人間だ。
すかっとするものの、私が自信なき人間であるせいか、何か違和感を感じてしまう。

金原明善(1832年・天保三年~1932年・大正12年)、浜松安間生まれ。
金原の一生は司馬遼太郎の主人公のように、何の迷いもぶれもない。

本物ほどシンプルになっていくものであるが、人間も一言で言い表せる者ほど本物だ。
金原は、その一言で言い表せる数少ない人間である。
一生を賭けて何を行ったかというと「天竜川の治水」に他ならない。
「あばれ天竜」と呼ばれた天竜川の治水の必要性を痛切に感じた金原は、天竜川の治水事業に取り組む。
更に「水害は山から来る」との考えから天竜川の上流に植林し、金原林を造った。
天竜川を治めるためであったら個人の財産も道楽も要らなかった。
明治10年には、天竜川の治水のために全財産63,517円を政府に寄付している(加藤鎮毅氏の計算では現在の1億7410万円)。

この金原明善とはどのような人間なのであろう。
あまりにも私心がなさ過ぎて、胡散臭い。
いくら難事業のためとはいえ、ポンと全財産を寄付してしまう人間がいるのだろうか。
そんな疑問をもとに、いろいろ当たって行くと、松本清張の「対談 昭和史発掘」(文春新書)という本に辿り着いた。
この本では、「政治の妖雲・隠田の行者」の項で日本のラスプーチンと呼ばれた飯野吉三郎を取り上げている。
飯野はかなり怪しい人物である。その中で金原の名前が出てくる。
読んでみると「飯野は儲けた金を金原と組んで満州に投資してさらに大儲けした」と書いてあり、金原に関しては「政商」と記している。
私には特に「政商」という文字が引っかかった。
金原は財産を全額寄付した後もたびたび多額の寄付をしている。
一文無しになったはずの金原がなぜ多額の寄付ができたのだろう。
この疑問に答えてくれるのが「政商」の二文字である。
財産全額寄付は当時内務卿の地位にあった大久保利通を通じて行われている。
地方の有力資産家が中央への確固たるポストを得るために「財産全額寄付」という一か八かの派手なパフォーマンスを行ったのではないか。
実際、寄付の後、金原の名は中央界に知れ渡った。
この試みは成功し、金原は政府とのパイプの下、後日、金原銀行を経営するなど安定した地位を築くことができた。

ここまでの推論は先の「対談 昭和発掘史」と「金原明善伝」「あばれ天竜を恵みの流れに」の三書を読んだ時点でのものである。
その推論が根底から覆されたのは、浜松の明善記念館に行ってからである。
金原の肖像は描かれたものしか見ていなかったのであるが、頑固そうな唇に、意思は強いが意地悪そうな目付きのものであった。
しかし、その肖像の元である写真を見て、びっくりした。
金原の目は少年のように純粋にきらきら光っていたからである。
私はここまで雄弁に人格を語りかけてくる写真を見た覚えがない。
この目の持ち主なら無私の人であってもおかしくない。
私の考えは180度変わった。

「金原明善の一生」(三戸岡道夫著)を読むとかなり明善の考えが分かってきた。
三戸岡氏は色々な金原の言葉を紹介している。

また明善は「慢損謙得」という訓えを説いている。その意味は、
(傲慢であれば、必ず何かで損をし、謙遜であれば、いつか利益を受ける)
という、実践道徳を説いたものである。

家訓の柱は、次の六カ条であった。
一.君国を重んずること
二.財産を重んずること
三.衣食住に制限を設くること
四.人はみな、その力に食むべきこと
五.家計は一定の年額を設くべきこと
六.家伝二宝のこと

第六条の「家伝二宝のこと」とは、金原家に永遠に伝えるべき『二つの宝』を規定したものである。二つの宝とは、
一は、よく忍ぶこと
二は、嗜むことなし
という二つの教訓である。


そしてこの六カ条全体を通して、
(行いを先にして、言を後にすべし)
と強調したのである。すなわち、議論ばかりしていても駄目だ、行動を先にしろということである。

わしは国家宗だから、一向に国家につくすことを考えている

私心一絶万成功
私心がなければ万功は成るが、これに反して少しでも私心があると万功は望むべきもない


不足をがまんして、他人が困っているのを救うのが真の慈善である。美しい着物を着て、うまい物を食い、美しい家に住み、そして余った金を世に施すのは、真の慈善ではない。それは単なる名分にすぎない。

わたしの社会事業は一種の道楽といってもいいでしょう。その道楽が人のためになり、しかもわたしの名前が残る、こんな結構なことはないではありませんか。span>


それまで、天竜川の治水に一生を懸けようとした金原の動機が不明だった。
ひどいものになると、「青年期に不治の病に罹ったが、天竜川の水を飲んだら完治した。その恩義に対するため」などという的外な説明があったりする。
金原明善というキーワードをひも解いていくと、金原にとって天竜川とは自らを表現するキャンパスに過ぎなかったと分かる。
天竜川の近くに住んでいなかったなら、金原は何か別の難事業を見つけ、そのために一生涯を懸けたであろう。

当初に飯野との関連を述べ、トンチンカンな考えを披歴してしまった私であるが、100%間違っているのではない。
二宮尊徳は「経済なき道徳は寝言である」との考えを示したが、金原の考えも同様である。
金原には金儲けに対して天性の才能があった。
「町で儲けた金を田舎で使う」とも言っていたが、この考えを具体的に示している本がある。
「幸せの風を求めて」(西まさる著)だ。
知多に榊原弱者救済所を作った榊原亀三郎を描いたノンフィクションである。
間接的にではあるが、榊原に弱者救済所の設立を示唆したのが金原である。
次の一語が金原の考えを端的に示している。

汚い金でも善いことに使われれば、それは善い金だ。どんなにきれいな金でも悪いことに使われれば、それは悪い金だ

目的と手段が明確に分かれているのであるが、不正をしてまで金を稼いだ訳ではない。
ただ、金原は清濁あわせ持つ器量であったのだろう。

金原は「こいつだったら出来る」と思った相手には放任主義を取る。
弱者救済所が開設後、危機的な状況に陥っても、金原はたいした援助もしない、激励に訪問にも行かない。
それでいながら、目の端ではしっかりと動きを捉えて、影では支援している。

西氏が紹介するエピソードは人間臭い、いかにも金原らしいものである。
弱者救済所一〇周年となったある日、榊原は金原の訪問を受ける。榊原はいいところを見せようとして、ことさら倹約を強調してみせたり、節制の度合いを自慢する。
布団も二人で一枚だと告げ、板の間に金原を寝せる。深夜になって榊原は、金原に呼ばれ、話をしてやるから布団に入れと告げられる。布団に入った榊原はいきなり金玉を鷲掴みにされた。驚く榊原に「人間、急所を掴まれると他愛ないものだ」と笑った金原は続けて、

「亀三郎、きょうのお前を見ていると、わしに勝とう勝とうとしているのが見える。わしに勝つのが目的か、それとも救済事業の成就が目的か。わしに勝つのが目的ならすぐに負けてやるぞ。そうじゃないだろう。慈善事業にたずさわる者は、そんな勝気じゃよろしくない。人の本質が見えなくなる」

と説教したそうである。
なんとも人間臭い金原の人間操縦術である。

金原は勲章を与えると言われた時も強硬に固辞した。金原の前には金も名誉も必要なかった。
偉人には間違いないが、規格外の偉人である。
その生き方を見ると、誰もが人より優れている、人には負けていない、ということばかりに汲々となっている我々に清々しい風を感じさせてくれる。

最後にまた引用。

「お前さんは強がって見栄をはって生きている。強がって肩をはるから疲れるだろう。でも、その割に満足は少ないはずだ。そんなに虚勢を張らねば生きていけないとは、まことに気の毒なことだ」(幸せの風を感じて)





(参考資料)
対談 昭和発掘史(文春新書)松本清張
あばら天竜を恵みの流れに(PHP)赤座憲久
金原明善伝(タンハマ編集部)御手洗清著・加藤鎮毅監修
金原明善の一生(栄光出版社)三戸岡道夫
幸せの風を求めて(新葉館出版)西まさる
明善記念館パンフレット

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天保の改革と日光参拝~水野忠邦

2012年10月11日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
水野忠邦というと、悪名高い天保の改革の指揮者として有名である。
ときの将軍・家慶が好物の初ショウガも食べられず、ぼやいた話も残っている。
しかし、別の一面もある。
忠邦は、吉宗以来途絶えていた何かと費用の掛かる日光参拝を復活したのである。
同じく倹約令を敷いていた吉宗が久しぶりに日光参拝を復活した点も面白い共通項だ。

最後に家綱が日光に参拝した寛文三年から実に六十五年が経った享保十三年。
八代将軍吉宗がのちに享保の改革と呼ばれる緊縮財政を行なっているときに、日光参拝は復活した。その後も歴代ごとに行なわれることがなく、十代家治、十二代家慶の御世にのみ行なわれた。
日光参拝が敬遠された理由は、費用が掛かりすぎる点にあった。
大御所政治を敷いた家斉も、文政九年に日光参拝を計画しながらも、金銭的理由により断念した。
この日光参拝に並々ならぬ意欲を燃やした男がいる。ほかならぬ老中・水野忠邦である。
忠邦は、天保の改革の倹約政治だけが喧伝されるが、一方では思い切った金の使い方をした人物である。
家慶の日光参拝を忠邦が計画し始めたのは、天保十一年頃と言われ、同年十月には作事奉行若林佐渡守と勘定吟味役中野又兵衛を日光に霊廟や諸堂社の修復のために派遣している。翌十二年正月には日光神領の改革も開始されている。
忠邦は参拝の費用は倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした。三年来の長期計画を立てた念の入れようで、相当な散財となるこの行事を成功に導いた。
寛政六年、忠邦は肥後国唐津六万石の藩主水野忠光の子として生まれている。十九歳にして家督を継ぐと、幕政の中枢への憧れ捨て難い彼は浜松藩六万石への転封を上申する。唐津藩は長崎警護の任務があり、幕閣に列席できなかったからである。
浜松藩も唐津とお同じ六万石であったが、石高には表高と内高がある。表高は格式とも言うべきもので、この大小によって家の格式や江戸城での部屋が決定される。内高は実質的に収穫される石高のことである。浜松は格式が高い家だったので、表高も内高もほぼ同じ六万石であったのに対し、唐津は表高六万石、内高二十万石であった。
家臣の猛反対を押し切って浜松に転封になった忠邦はそれ以降、中央への足掛かりを作ることに成功していくのだが、この計算などを見ても、忠邦は人とは違った算盤を持っていた男と言える。
「天高く」より引用


注目されるのは参拝の費用を「倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした」という点である。
日光参拝は徳川幕府の権威復活を示すデモンストレーションであったが、天保の改革の倹約も、費用捻出ための一環であったのだ。

忠邦が老中を罷免されたとき、江戸町民は忠邦の屋敷に石を投げて喜んだと言う。
そんな没落を見て、かつてはこびへつらうように従っていた町奉行・鳥居耀蔵らは手のひらを返したように冷たく接したのであるが、忠邦は翌年に再び老中に返り咲いている。

忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。

時代に逆行したと言われる天保の改革を行った忠邦は過小評価される場合が多いように思うが、信念の人だったには違いない。
政策的な評価は別として、私の目には忠邦は魅力的な人物に映る。

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貝原益軒と浮気~接して漏らさず

2012年08月27日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
今日、8月27日は貝原益軒の命日である。
享年85歳。正徳四年(一七一四年)の出来事であった。

もともと病弱であった益軒は、自らの体験から、短命と思われる人も養生さえよく行えば長く生きられると主張した。
その考えを纏めたのが有名な『養生訓』である。
夫人である東軒に先立たれた益軒、84歳のときの著作である。

『養生訓』は「接して漏らさず」の言葉だけが独り歩きして、なんだか性生活の指南書のように思われている節があるが、益軒の著述は食べ物から、呼吸法、気の持ち方など多岐に分かれていて、性に関する部分はほんの一部である。

でも、少し気になるので、「接して漏らさず」の項を拾い読みしてみる。

四十以上の人は、交接のみしばしばにして、精気をば泄(もら)すべからず。四十以後は、腎気やうやく衰る故、泄さざれども、壮年のごとく、精気動かずして滞らず。此法行ひやすし。この法を行へば、泄さずして情慾はとげやすし。然れば、是気をめぐらし、精気をたもつ良法なるべし

「漏らさなければ」どんどん性行為を行ってよい、と言っている訳ではなく、

年若き時より、男女の慾ふかくして、精気を多くへらしたる人は、生れ付さかんなれ共、下部の元気すくなくなり、五臓の根本よはくして、必短命なり。つゝしむべし。

性欲は、なるべく慎んだほうがよいと忠告し、回数についても言及している。

人、年二十者は四日に一たび泄す。三十者は八日に一たび泄す。四十者は十六日に一泄す。五十者は二十日に一泄す。六十者は精をとぢてもらさず。もし体力さかんならば、一月に一たび泄す。気力すぐれて盛なる人、慾念をおさへ、こらへて、久しく泄さざれば、腫物を生ず。六十を過て慾念おこらずば、とぢてもらすべからず。わかくさかんなる人も、もしよく忍んで、一月に二度もらして、慾念おこらずば長生なるべし

よくよく読んでみると、こんな内容である。
医学的に正しいのかどうか分からないが、他の記述では現代にも通じるような部分も多い。
()内の宛先は、筆者記入。

(飲兵衛諸氏へ)
酒を多くのんで、飯をすくなく食ふ人は、命短し。

(怒髪仙人へ)
怒の後、早すべからず。食後、怒るべからず。憂ひて食すべからず。食して憂ふべからず。

(食いしんぼさんへ)
人生日々に飲食せざる事なし。常につゝしみて欲をこらへざれば、過やすくして病を生ず。

(逆境にある人へ)
人をうらみ、いかり、身をうれひなげきて、心をくるしめ、楽しまずして、むなしく過ぬるは、愚かなりと云べし。たとひ家まどしく、幸なくしても、うへて死ぬとも、死ぬる時までは、楽しみて過すべし。貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命をおしむべからず。

益軒が22歳年下の東軒と結婚したのは39歳の時。
東軒は儒学、漢詩などに優れ、夫の著述をよく助けたと言うが、益軒より一年早く62歳で死去。
原典が分からないので詳しいことは分からないが、清水桂一氏の「食通一日一言」(新人物往来社)によると、東軒は浮気したことがあり、益軒は詫び状を書かせ、許したと言う。
何とも益軒先生らしい行為である。
その益軒も、夫人の死後一年を待たずに鬼籍に入ってしまったのだから、東軒がよきパートナーであったには違いない。

参考:養生訓(岩波文庫)

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吐瀉物を食べた山岡鉄舟~鉄舟流鍛錬方法

2012年07月19日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
今日、7月19日は山岡鉄舟が没した日。明治21年のことで、享年53歳。

山岡鉄舟は剣豪として名高いが、手元にある高校の教科書には名前が載っていない。
「鉄舟は何をした人?」と、改まって聞かれると、結構分からない人が多いのではないだろうか。
江戸城開城の際に、勝海舟の代理として駿府に滞在していた西郷隆盛のもとに赴き、交渉を成功させた。この件が歴史的には一番有名だが、そんな史実は鉄舟の人となりを語らない。

鉄舟を調べていくと、かなりの変人だという印象を強く持つ。
言い方を変えれば、自分が追い求める真実・真理追求のためには、誰が何と言おうと決して道を譲らない頑固者。偏屈と言ってもよい。
生活そのものが求道であり、生きるとは真理を見極めることに他ならなかった。
鉄舟を人は剣豪と呼ぶが、彼にとって剣も道を極めるための手段であったし、禅にしても同じだった。
このような表現をすると、鉄舟は山にこもって仙人のような生活をしていたかのように思われるかも知れないが、そうではない。

「最後のサムライ 山岡鉄舟」から鉄舟夫人・英(ふさ)の話を引用する。

二十四、五歳の頃から盛んに、飲む、買うというようになりました。もっとも一人の女に入れ揚げるというのではなく、なんでも日本中の商売女をなで斬りにするのだと同輩の者には語っていたようです

心配した親族が離縁するよう夫人に迫ると、鉄舟は「うるさい身内など、没交渉のほうが、面倒がなくてよい」と語ったので、怒った親族とは絶交となったと言う。
ストイックな印象の強い鉄舟だが、この行為は「まことに情欲を断ちたいと思うなら、今よりも更に進んで情欲の海に飛び込み、懸命に努力してその正体を見極めるしかない」という鉄舟の徹底した姿勢から出たものだった。
調子のいい話だと思った人もいるのではないだろうか。
その人たちには、次の強烈なエピソードを紹介したい。

無刀流を開いた明治十三年以降、鉄舟は毎年三月三十日に無礼講の宴会を開くのを常としていた。
ある年、一人の門人が鉄舟の前に手をついて何かを言おうとした瞬間、吐瀉してしまった。
鉄舟は、何を思ったか、門人が戻した汚物を片っ端から食べて、跡形もなくした。
これは、鉄舟の考える浄穢不二、つまり清いものと汚いものの区別を超越するための鍛錬だった。
弟子が「それにしても、体に毒でございましょう」と鉄舟の身を気遣うと、「畳の上の水連では役に立たない」と笑ったと言う。

このような徹底した鉄舟の態度をみると、先の色情を絶つために情欲の渦に飛び込む、という行為も鉄舟流の鍛錬に違いなかったことが分かる。
もうひとつ面白いエピソードがある。
酒席で夜中まで飲んでいると、健脚を誇る者がいる。成田山までの往復百四十キロを誰か、明日一緒に歩かないか、と豪語した。
酒席のことだから、流せばいいものを、鉄舟は「それがしが同行いたす」と受ける。それが今で言う午前一時。出発は四時。当然、言いだしっぺは起きることは起きたが、歩けもしない。
それでも、約束は約束、と鉄舟は一人で成田山まで歩き、その日の深夜にすり減った下駄の歯と共に帰って来た。

鉄舟は身の丈六尺(180cm)。頭脳も優秀で、体力にも恵まれていた。親の死に別れにより、若い頃は金銭的には恵まれていなかったが、自己を肯定する気持ちはかなり強かったに違いない。
成田山の話にしても、笑って済ませばいいのに、信念があったのだろうが、非常に頑固で融通の利かない行為である。
買色の話にしても、夫人にも周囲にも何一つ説明がないし、文句を言う親族は邪魔とばかりに切り捨てる。
吐瀉物の話にしても、思いつきの域を出ない。
それでも、私は鉄舟の行為には憧れに似た気持ちを抱く。

人は行為によって地位を得る。
地位によって、己を証明したいと願う。

「優秀だから、出世した。だから俺は偉い」
「私は努力した。その結果、マラソンでこれだけ速い記録を残せた。だから、わたしは凄い」

鉄舟は全く逆で、自分自身が満足できる境地に辿り着ければ、名誉も金もいらなかった。
そんな鉄舟の周りには自然と人が集まってきたし、地位も得た。
時代がよかった、と片づけてしまうのは簡単だが、精神の綺麗さ、潔さというものを思わずにはいられない。
鉄舟は頑固で無骨者であったが、驚くほど素直な性格の持ち主だった。周囲の人間も、時には鉄舟の言動に振り回されながらも、彼の魅力に惹きつけられたのだろう。

華族にするとの知らせを聞いたときに詠んだ句が鉄舟らしい。

「食ふてねて 働きもせぬ御褒美に 蚊(華)族となりて 又も血を吸ふ」



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清水の次郎長とSONY

2012年07月14日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
マックスバリュ清水三保店は、「清水の歴史」という小冊子を作って無料配布している。手作りながら、レイアウトの綺麗な非常によくできた小冊子である。
当然、地元の名士である清水の次郎長にも触れている。

もしも次郎長が単なるゴロツキの集まりの大将であったなら、天下の大親分なんて決して言われなかったであろう。(略)
次郎長の前半生を「義理の人」とするならば後半生はまさに「人情の人」と言えよう。(略)
人情もろくて義理がたい。おっちょこちょいだがノンビリ屋。言葉は汚いが、気持ちはきれい。ちょびちょびおせっかいをやきたがる。


任侠の世界にどっぷりと浸かっていた次郎長はまさしく、斬った張ったの世界の住人で、江戸時代が平和のまま続いていたなら、決して陽の当たる道を歩けない人物だった。
幕末の混乱は、次郎長に味方した。新政府(いわゆる官軍)の要人にしたところで、暗殺やテロの経験者だったから、殺人や殺人ほう助犯であっても、任侠の世界での罪は混乱に乗じて帳消しになった。
もうひとつ幸いしただったのは、次郎長が助けたのが新政府ではなく、旧幕軍であったことだ。
次郎長が幕軍に付いたのは、駿府という土地柄もあるのだろうが、その選択が正解だったのは、次郎長のライバル、黒駒勝蔵の命運を見れば分かる。

勝蔵は甲州に縄張りを持つ親分。
清水の次郎長と甲州の黒駒勝蔵との抗争の背後には、清水港から甲州に運ばれる「甲州行塩」問題があった。
清水港に上がった塩を清水の商人はなんだかんだと値を上げ、甲州の商人に高値で売っていた歴史がある。
また米は逆で、甲州から清水に運ばれたが、ここでも荷役等をどう分割するかで問題が起こっていた。
このことから、自然に清水と甲州は、ライバル関係にあった。

次郎長と勝蔵は血で血を洗う抗争を繰り広げて行くのだが、時代は江戸時代から明治時代に移行しようとしていた。
この時期、勝蔵は赤報隊に入隊する。
勝蔵が官軍サイドの赤報隊に入ったのは、勝蔵が幕軍と敵対する仲であったからだ。
新島を島抜けした博徒の親分「ども安」こと武居の安次郎を勝蔵が匿っていたことがあり、勝蔵は幕府から「指名手配」される身であった。
ども安は勝蔵の親分であったが、島抜けという大罪を犯したども安も捕えられ、幕府の手によって処罰される。勝蔵は、これ以来、幕府には反感を持ち、官軍寄りの赤報隊に入った。
赤報隊は、政府にいいように使われ、邪魔となったらポイと捨てられている。
勝蔵は赤報隊沈没時の渦からは身をかわし、その後、官軍の徴兵七番隊に池田数馬の偽名で入隊する。
錦の御旗を振って駒を進めている頃はよかったが、勝蔵は明治四年十月に突然、処刑されている。
詳細な理由は分からないが、赤報隊と同じく、「邪魔になったら、即切り離す」方針はいかにも新政府らしいやり方である。
一方の次郎長は咸臨丸の件から、ぐっと幕軍に近い存在となったが、これまた幸いなことに、駿府は山岡鉄舟、関口隆吉、松岡萬など幕府の関係者が政治の中心に就いた。

「清水の歴史」によると、次郎長は、

有度山(静岡市)の開発、三保(清水市)の新田開拓、巴川(清水市)の架橋などの地元事業のほかに、遠州相良(榛原郡相良町)で油田の発掘事業にも携わったり、鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市大淵次郎長町あたり)の開墾に着手。

とある。

土建事業は今も昔も旨味の多い商売である。利権を政府から正式に与えられていた次郎長は、もはやアウトローに身をやつす必要など何もない。
若い頃は武力を以て商売敵を蹴散らす必要があったが、政府からのお墨付きがあるからには、好々爺を演じていればよかったし、倣いが本当の性格になっていったのかも知れない。
次郎長が偉人であったとか、善人であったなどという話にはどうにも疑問符を付けざるを得ないが、清水の大物実業家であり、実力者であったのは間違いない。

明治八年二月、清水に「中泉現金店」が開業した。この店は知多半田港で醸造業を営む中埜又左衛門と盛田久左衛門が共同で販路を広げるために作られた。この際には、清水の有力店「松本屋」に対してM&Aが行われたが、この話を纏めたのが、次郎長である。次郎長は面倒な交渉事もおこないうる実力を有するようになっていたのである。
ちなみに、この盛田家からは後にSONYを興す盛田昭夫が出る。

あまりに理不尽な勝蔵の最期と、成功した次郎長の晩年を思うと、運命の不思議さを感じる。
次郎長の成功は、人脈に恵まれた点が大きい。
大政、小政、相撲常吉など多数の個性豊かな子分。
鉄舟など旧幕軍の支持。
次郎長の運は強かったに違いないが、人脈を捉えて離さない人間的な魅力が次郎長にあったのだろう。

鉄舟に「これからは理学が必要だ」と言われた次郎長は急いで本屋に飛び込み、「理学の本を見せてくれ」と頼んだ。すると主人は山のように本を並べ出した。文盲の次郎長は「とてもこんなに多くては駄目だ」とほうほうのていで逃げ出したという。
次郎長にはこの手の話が多い。
もしかすると、次郎長の演出ではないか、と思えるが、なんとも人間臭い話だ。
「実業家」になっても次郎長は任侠時代の暗い影を忘れていなかったし、ふんぞり返っていた訳でもないように思える。
こういった次郎長の性格に運が味方したのも知れない。



次郎長の子分、小政の写真。冷血な殺人マシンだっと伝えられる。次郎長が「実業家」に転身してからも素行が改まらず、浜松で獄中死している。



大政の写真。尾張出身。身体が大きく、槍の遣い手。次郎長一家で一番のインテリだったとされる。

梅?寺HP

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次郎長の身長と幕末史実

2012年07月07日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
清水の次郎長こと山本長五郎は、幕末から明治に掛けて名高かった任侠の人である。その次郎長に関して、次のような記述がある。

生来の大男で腕力が人一倍強く、相撲をとっても誰にも負けたことのなかった長五郎は、押し入った四人組の盗賊に臆することもなく、刀を振り回して立ち向かった。
東海遊侠伝


次郎長は色は赤黒で、髪は柔らかいせいかそれ程の白さでもなく、少しザンギリ頭で、見上げるような大男で、手は団扇のように大きく、そしてささくれていた。
細田美三郎氏の回想談
(引用はいずれも、「梅蔭寺 清水次郎長伝」より)


清水の次郎長は大男というのが通説となっている。
ではどれくらいだったかというと、「我れ生じて二十三歳、六尺男子なり」の表現が東海遊侠伝で具体的に述べられている箇所があり、180cmと分かる。

現在、清水市には次郎長の生家と、次郎長が経営していた船宿「末廣」を再現した施設がある。
末廣に入ると、すぐ右手に次郎長の実物大のフィギュアが置いてある。そのフィギュアは、ずいぶん小さく見える。
説明を見ると、「次郎長の身長は五尺二寸だった」とあるから、156cmである。当時としては平均身長だったのかも知れないが、少なくとも大男とは呼べない。
生家のほうにも、次郎長の身長に関する説明があり、同じように五尺二寸とある。
末廣に電話をしてなぜ、このような食い違いが起こったか聞いてみると、「浪曲として興業された際、大男のほうが親分として受けがよかったのだろう」という説明だった。これは十分に考えられる話で、また、東海遊侠伝を表したのは次郎長の義理の息子である天田五郎であるから、身贔屓もあって確信犯的に脚色を加えたのであろう。

次郎長は山岡鉄舟とも深い親交を結んでいたが、ふたりの出会いについてもはっきりとは分からない。

①勝・西郷会談の下地交渉の使者として駿府に向かった鉄舟を次郎長が護衛したことから始まる。
《慶応四年(1868年)3月》「図説・幕末志士199」

②東海道を急ぎ西上、駿府を目指す鉄舟が由比の望嶽亭主松永氏、興津水口屋の縁から次郎長に道案内を依頼したという伝承は十分肯ける。
《慶応四年3月》「清水次郎長」

③(清水港の)死体を、駿府藩は官軍の目を気にして放置していたのであるが、「死んで仏になれば、官軍も賊軍もない」ということで次郎長が子分に埋葬させたところ、駿府藩の取り調べを受けるに及び、次郎長は鉄舟と出会うことになる。
《慶応四年10月》「山岡鉄舟」


④次郎長と会った松岡(松岡萬・新番組隊長並)は、その人物に心服し、山岡鉄舟が駿府に着任するのを待って次郎長を紹介した。明治元年(1868年)も終わりに近い頃だった。
「梅蔭寺 清水次郎長伝」


①②の説は有名であるが、鉄舟は薩摩の益満休之助とともに駿府に向かい、「益満を前に出してわたしは後ろに従い、薩州藩と名乗って急ぐに、全く阻む者はいなかった」と自ら語っているし、信憑性は薄いように思う。個人的な考えだけ述べるには④の説が事実だと考える。

だが、身長などという数値化できることすら、すり替えられてしまうのが歴史だとすれば、本当のことなど、後になってしまえば、どうにも変えられるというのが、一番の真実なのかも知れない。

田沼意次が松平定信の喧伝によって、一点の曇りもない悪人に仕立て上げられ、昭和も第二次大戦後まで、意次=悪人説が信じられて来たのは、恐るべき情報操作である。
現在伝えられている幕末の史実というのも、多くが勝者である西軍(官軍というべきか)の都合の良い説には違いない。

参考資料
梅蔭寺 清水次郎長伝(田口英爾) みずうみ書房
清水次郎長(高橋敏)岩波新書
山岡鉄舟 教育評論社
図説・幕末志士199 学研


清水次郎長


次郎長の生家

末 廣

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