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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

ソニー・カポネ アル・カポネの息子

2014年01月03日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
森下賢一氏の「偉人の残念な息子たち」(朝日文庫)という本を手にした。
とても面白い。
ヘミングウェイの息子は性転換したとか、エジソンの息子は父親の名を使った詐欺の常連だったとか、チャーチルの息子は酒乱で死んだ(ちなみに娘はハリウッド女優でフレッド・アステアと共演したがやはり酒乱だった)など、興味深いエピソードを紹介している。
その中でも、アル・カポネの息子ソニーについての記述も面白い。

アル・カポネは知らぬ人がいないほど有名なアメリカ禁酒法時代のギャングである。
カポネの指示により殺害された人間の数は400人にも上るといわれる。
残虐なギャングであったが、ギャングにしては陽気な性格、マスコミを情報操作したこともあり、大衆に人気があった。
1931年に逮捕されアルカトラズの刑務所に収容されたが、1940年の大統領選挙の際には、アル・カポネと書かれた無効票が記録的な数に上ったという。

カポネの息子がソニーだ。
カポネが長く逮捕されず栄華を誇っていたら、その後のソニーの生活はどうなっていたか分からない。
しかしカポネは梅毒で頭がおかしくなりながら、1947年に死んだ。
そのとき、ソニーはマイアミ大学で経営学を学んでいた。
実はマイアミ大学の入学前はノートルダム大学に偽名で入学していたが、カポネの息子だとばれて退学させれれていた。
1940年代、ソニーはマフィアの組織から仕事の手伝いをしないかと、打診されたそうだ。母親の反対もあり、ソニーは打診を蹴った。

大学を卒業後、中古車販売のセールスマンになったが、その販売店の社長は中古車のメーターを改ざんして売るようなインチキ商売をしていた。
ソニーはこのインチキに反対し、退職。
その後、母親とレストランを始めるが、給仕頭の仕事はシャイなソニーには無理で、レストランも廃業。
次はフロリダでタイヤ倉庫に務めるが、その給料では妻と四人の子供を養うことはできず、妻子に見切りをつけられ、離婚されてしまう。
その後は、妻子への養育費を捻出するため、昼夜を問わず働いたという。
テレビ映画「アンタッチャブル」が企画されたとき、ソニーは裁判を起こして反対したが、敗訴した。
1965年にはソニーは新聞ネタとなる。
アスピリンと懐中電灯の電池を盗んで逮捕されたのだ。
盗んだ金額は3ドル50セントだった。
この事件から9か月後、ソニーはアルバート・フランシスと改名し、2004年に死んだ。
ギャングとはいえ、あまりに派手な人生を送った父親とは違い、3ドル50セントを盗んで逮捕されるという、あまりにもぱっとしない人生だった。

偉大と呼ぶのは違うが、「大物」だった父親の影で地道に生きたソニーだが、父親がアル・カポネでなかったら、ソニーの人生は変わっていたのだろうか。
日本は七光りに甘いところがあり、首相の孫などというしがらみや重圧を感じさせないあっけらかんとしたタレントもいるが、少なくともそんな「大物」が父親でなかった自分の幸福を思いたい。

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荒木又右衛門・2

2013年11月30日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
荒木又右衛門は伊賀越鍵屋辻の決闘で36人を斬ったというが、実際には2人しか斬っていない。
しかも、最大の強敵・河合甚左衛門は馬上のところを不意打ちし、槍の名人・桜井半兵衛には、槍を持たせなかった。
作戦勝ちと言えなくもないが、相手が多勢だったとはいえ卑怯といえば卑怯。
しかし、戦いとは得てしてこんなものである。
戦闘の最中、又右衛門は愛刀・伊賀守金道をつば元から折られている。
刀と刀を切り結んだとき、折ったのではないか、と思う人が多いだろうが、実際は違う。
腰を相手側の小者に木刀で叩かれた又右衛門が、木刀を払ったところ折れたのである。
そもそも、実戦では刀と刀が合わさることは滅多にない。
つばぜり合いなどは剣道では存在しても、実戦では起こらない。
木刀を払ったくらいで折れるのだから、真剣と真剣を思い切り合わせれば、いつなんどき折れるか分からない。

一方で、肝心の渡辺数馬と仇敵・河合又五郎の一騎打ちは5時間以上かかったという。
お互いに至近距離で刀を振り合い、切り結んで戦ったのではない。
振っては逃げ、逃げては振るという繰り返しで、刀の有効距離以遠での戦いだっと思われる。

多分、又五郎としては途中逃げ出そうとしたのではないだろうか。
それを周囲の又衛門らが押しとどめる。
又五郎を押しとどめてくれても、数馬としても怖くて手が出ない
声ばかり掛けて、手数は出ない。

最後まで決着はつかず、数馬の剣が又五郎の腕を偶然のように斬ったので、それでよしとして、又右衛門が助太刀して又五郎を討ったとされる。
それまでに、数馬も又五郎も倒れる寸前だっという。
身体的な面よりも精神的にグロッキーだったのだ。

これが真剣勝負の最たるものだ。

(関連記事) サムライ 真剣勝負

荒木又右衛門 鍵屋の辻 36人斬り 動画

伊賀越資料館


「数馬茶屋」の数馬祝い膳(1,250円)。このほかにかやくご飯と小皿数皿が付く。
仇討当日、茶屋で蕎麦と鰯を頼んだ又衛門は緊張しきっている数馬に「傍でゆわすとはめでたい」と言った。
ゆわす=やっつける(吉本新喜劇の「ゆわしたろか」で有名ですね)の意で、冗談めいて言ったのである。

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荒木又右衛門・1

2013年11月30日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
荒木又右衛門は仇討で有名だが、誰の仇討だったのか、と言うと即答できない人が多いかも知れない。

端的に言うと、渡辺数馬が弟源太夫の仇、川合又五郎を討った。
荒木はその助太刀である。

当時、仇討の規定としては、弟が兄の仇を討つ、子が親の仇を討つことはあっても逆はなかった。
子の仇を親が討つことはなかったし、兄弟の場合も同じだ。

それがなぜ、この場合は仇討が成立したかを説明すると、話がややこしくなるが、結論からいうと、藩主・池田忠雄(ただかつ)が認可したからである。

又五郎は、江戸に住む旗本・安藤左衛門のところに逃げ込み、匿われていた。
忠雄は左衛門に又五郎の引き渡しを要求するが、拒否される。
又五郎はわざわざ面倒を起こしてまで匿われるほど才能に富んだ人間だったかというとそんなことはない。
単に維持の張り合いだった。

もともと川合又五郎の父・半左衛門は安藤家の家臣だったが、家中で刃傷沙汰を起こし、逃走。
又左衛門を庇ったのがたまたま通りがかった忠雄であった。

安藤家は、又左衛門の引き渡しを要求するが、忠雄は拒否。
忠雄の父は有名な池田輝政。さらに祖父は長久手の合戦で絶命した池田恒興。
恒興を討ったのが、左衛門の父、安藤直勝。
両家には少なからぬ因縁があった。

又五郎が安藤家に逃げ込んだのは最良の選択だった。
これは又五郎の相談を受けた山野辺義忠の入り知恵だったという。
山野辺は後に水戸家家老となるが、この時期は池田家にお預けの身分だったので、池田家にはいろいろと思いもあったのだろう。

幕府も巻き込み、又五郎の身柄を渡す、渡さないの大騒ぎとなったが、幕府側にも外様大名に対する意地があり、容易に解決しない。
結局、又左衛門を殺し、池田、安藤家ともに喧嘩両成敗ということで手を打とうとしたが、忠雄の怒りは収まらない。

忠雄はこの事件から二年後に他界するが、遺言に
「仏事追善はいらないから、川合又五郎の首を持ってこい。それでなければ、往生できない」
というようなことを記している。

困ったのは数馬だ。
こんな遺言を残されては、藩内には留まっていられない。
脱藩して又五郎の仇を討つ羽目に陥ったが、剣の腕はまったく当てにならない。
そこで助っ人を頼んだのが叔父で大和郡山剣術指南の荒木又衛門だったというわけである。

こうなると、今度は渡辺家と河合家の意地の張り合いになってくる。
又五郎の警護に当たったのが、同じ大和郡山剣術指南の河合甚左衛門だったいうのも、意地の張り合いを増長させた。

かくして、伊賀越鍵屋辻の決闘が始まったのだった。


茶屋「鍵屋」のあった場所には「数馬茶屋」が建っている。明治後期~大正の建物で相当年季が入っている。

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坐漁荘~西園寺公望とアイスクリーム

2013年11月24日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
今日、11月24日は西園寺公望の命日である。
西園寺は公家の出身であるから幕末の時期には目立った活躍はしていない。
鎮撫する任を負って西日本を行脚したくらいである。
この鎮撫というのは形式的なもので、新政府が書類を諸藩に渡す際に、重々しさを出すために皇族を同行させたに過ぎない。

政界で活躍するようになったのは、岩倉具視の引きや伊藤博文らとの親交もあったが、皇室と政界のパイプ役としてうってつけだった点が大きいと思われる。
若いときにパリに留学した経験からリベラリストで、自由民権運動にも傾倒した。
皇室の持つナショナリズムとリベラリストで親欧米派としての顔は相反するものであったが、二.二六事件でも襲撃されることなく天命をまっとうしている。

公望七〇歳のとき静岡県興津町(現静岡県静岡市清水区)に建てたのが坐漁荘(ざぎょうそう)である。
昔は窓を開けるとすぐそこは白浜があり、その先に波打ち際が見える風光明美なロケーションだった。
今では目の前にあった砂浜は埋め立てられ、バイパスの高架を望む殺風景な光景になっている。
決して広くはない屋敷だが、海側の窓が大きいため明るく、段差のないバリアフリーの構造となっている。
「坐漁荘」とは、座して釣でもしながら暮らそう、という意味であるが、実際は楽隠居して釣三昧の日々とはいかず、政界の実力者のもとに「興津詣で」が絶えなかった。

本物の坐漁荘は明治村に移され現存しているが、興津にはレプリカが建設されている。
レプリカではあるが、細部まで凝った造りで、本物に酷似している。
この辺りには公望や、同地に長者荘を建てた井上馨に所縁のある方々が今も住んでおられて、運営を手伝っておられる。
そのせいで、愛情のこもった施設になっている。

坐漁荘での公望の楽しみは、好みのパンを食べることだった。
興津は田舎だが、一方では清水港を目の前に持ち国際的な面も持ち合わせていた。
その当時としては洒落た乾物屋もあり、公望はその乾物屋に東京から毎日パンを取り寄せさせていた。
またアイスクリームが好物であった。
坐漁荘にはアイスクリームの輸送用容器(魔法瓶のようなもの)が残されている。
併せて栄太郎飴の缶も残されているから、甘党だったのだろう。
明治の元老がアイスクリームに目をほそめている姿は想像するとほほえましい。
公望はアイスクリームを食べながら、若き日に留学したパリの匂いを嗅いでいたのだろうか。
ブランデーにもこだわりを持ち、酒席には持参することもあった。

公望ほどのこだわりでなくても、ある程度の年齢以上になったら、食にもこだわりを持ちたい。
いい大人がカップラーメンばかり食べているのはみっともない。
今の日本は若者と年寄りばかりが金持ちで中年が貧乏という構図もある。
居酒屋で必死に安いメニューを探すお父さんが多いのも事実。
バイキングでのドカ食いがストレス解消になるのは若者であって、中年になったら工夫したい。
安い素材でも自分で調理し、いろいろ工夫を加えれば御馳走になる。
高い食材は買えなくとも、調理にこだわりを持てば、食材に対するこだわりと同様、立派なこだわりだ。
調味料にこだわりを持つのもいいかも知れない。
お金がなければ頭を使えというところか。
かく言う自分も反省。


若き日の西園寺公望。浪士風の髪型はとても公家には見えない。反骨心というか、少し風変りな印象を感じる。


決して広くはない坐漁荘。贅沢って何だろうと考えさせる。


アイスクリーム輸送容器。案外、贅沢はこの中にあるのかも知れない。

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服部半蔵  ~ 幕末の半蔵はどこにいたか?

2013年10月05日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
服部半蔵というと、「忍者の頭領」のイメージが強いが、彼自身は忍者ではなかった。
半蔵というのは継承された俗称で、幕末まで12人の半蔵が存在した。
黒井宏光氏の説では半蔵の「半」は平家の「平」の分解であり、もともと服部家は平家に仕える武将であったという。
もっとも有名な半蔵は二代目半蔵正成である。
その正成でもっとも有名なエピソードは「伊賀越え」である。
伊賀越えについては詳細は省略するが、要点は次の通りだ。
本能寺の変で信長が斃されたとき、家康は少数の部下を伴って堺にいた。
信長と同盟関係にあった家康は包囲網は潜れないとと自決を決心したが、本多忠勝らの進言もあり、思いとどまり浜松まで戻ろうと決意する。
道中、困難を極めたのが柘植村(伊賀町)、鹿伏兎峠(加太峠)ら伊賀越えであった。
その際、活躍したのが服部半蔵正成や伊賀者・甲賀衆であり、家康はその働きにより、半蔵を長として伊賀者、甲賀衆を召し抱えた。
上記は広く伝わっている半蔵正成の華々しいエピソードだが、正成は岡崎生まれの岡崎育ち。地理に詳しい訳でもなく、実際は活躍したかどうか不明だといえる。
ただし、伊賀者ら土地の者が活躍したのは紛れもない事実で、海音寺潮五郎氏も指摘するように、伊賀越えの活躍云々は別にして、それまで功績もあり伊賀にも所縁のある半蔵が伊賀者の長に選ばれたのであろう。
正成は家康と同年齢で、いまも半蔵門に名を残すほど重用されたが、子供の代になると栄華は続かなかった。
嫡子である三代目半蔵正就{まさなり}は、家康の弟である松平定勝の娘を嫁に貰い、家康とも親戚関係となる。
正就にはもはや忍者の面影はひとかけらもなく、生まれながらの大身旗本としての姿しかない。戸部新十郎氏は「忍びの知識そのものも捨てたいと思ったかも知れず」とまで言っている。
とにかく正就は配下の伊賀同心を奴僕のように使い、指示に従わぬ者は扶持米を減らしたというが、正就は会社でいえば部長職であり、社長は将軍である。社員の給与を決定するのは会社であり社長である。減給処分は部長職の権限を逸脱している。
正就の振る舞いは部下のボイコットを招き、伊賀同心は新たに足軽大将大久保甚右衛門の配下となった。これを恨みに思った正就はボイコットの首謀者と思しき一人を一刀の下に斬り殺しているが、これが人間違い。正就は妻の実家である松平家へお預けとなった。降格だけに留まらず、転勤まで言い渡された訳だ。
再起を期した正就は大坂夏の陣に出陣するが、そこで行方不明になっている。奥瀬平七郎氏は「多分、旧配下の伊賀者に消されたのであろう」と書いているが、黒井宏光氏は、越後長岡に逃れ農民として75歳まで生きたと書いている。
一方、四代目半蔵を襲名した正成の次男・正重も手落ちがあり、旗本の地位を失っている。
正重は結局、松平定綱に召し抱えられ、代々服部半蔵は幕末まで桑名藩の家老職を勤めることとなった。
伊賀では半蔵正成の兄である服部保元の子である千賀地半蔵則直が服部半蔵系統の継承者となる。
則直の子である采女が藤堂姓を許され、伊賀上野城代となった。
服部家では、桑名藩の家老、津藩の出先である伊賀上野の城代を産んだわけである。
桑名藩は周知の通り最後まで西軍に徹底抗戦した藩、かたや藤堂采女は鳥羽伏見の戦いにおいて、山崎砲台で佐幕の立場から一気に倒幕に転じた際の最高指揮官であったのが興味深い。

参考図書:忍者の履歴書(朝日文庫)戸部新十郎
      煙の末(伊賀上野観光協会)黒井宏光
      忍術の歴史(上野市観光協会)奥瀬平七郎
      忍者と忍術(学研)
      桑名藩分限帳(桑名市教育委員会)


伊賀上野城

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永田徳本~ワインと湿布薬

2013年09月05日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
永田徳本という医師がいた。
正確な生年ははっきりしないが、永正十年ごろ(1513年頃)の生まれと伝えられている。
徳川幕府が誕生する1世紀近く前、室町時代後期の生まれである。
生国についても、三河であるといい、甲斐であるともいい、はっきりしない。
生業は医師であるが、現代ではワインの本を読むとよく名前が出てくる。
ちなみに手元にある「ワイン学」(産調出版)のページをめくると、

江戸時代には甲州の(ぶどう)栽培が盛んになるが、それは医師・徳本が棚かけ法を考案してからのこととされている(1615年)

という表記が見られる。本によっては永田某などとなっているものもあり、永田徳本と正確に書かれているものと半々くらいの割合である。
しかし、どうして医師がぶどうの棚かけ法を編み出せたのだろう。

永田は馬の背にまたがり、薬箱をぶら下げて診療に赴き、貴賎を問わず、診察料は十八文と決めていた。放浪超俗の徒として、草庵に住み、仙人然としていたという。
それだけに伝説も多く、ぶどうの話も伝説のひとつと考えてよさそうである。
これらの伝説で一番有名なのは、病床にある二代将軍・秀忠を診察した一件である。永田徳本はいつもと同じように牛にまたがって登城したとか、一診しただけですぐに病巣を見つけ劇的な回復をさせた、診察代も十八文しか受け取らなかった、などという話だ。
秀忠を診察したのが、史実なのかどうか分からないが、甲斐の国に居住する永田徳本という高名が当時、江戸表にまで伝わっていたというのは事実だろう。

彼の編み出した永田流の真髄を成すものは、「自然良能説」と称されるもので、薬の治療に植物性の一種の劇薬を使用したものと考えられている。永田徳本自体が生まれながら病弱で、自分自身を実験台として試行錯誤していく過程で生み出された秘法である。
実際にこの秘法は永田の身体に合ったようだ。生年ははっきりしないが、亡くなった日は分かっている。寛永七年(1630年)二月十四日であるから百歳を超える長寿である。

それにしても診察代が掛け蕎麦一杯くらいの値段だったというのは、痛快である。
技術職の値段というのはもともとファジーであるが、医師というのはファジーの究極である。
前日に深酒をして、翌日の手術でミスをして人を死なせてしまったとしても罪に問われない。実際はそんな医師はほとんどいなくて、手術の前日には酒を控える人が99%だろう(そう願う)。
だが、ことプライスとなるとどうであろうか。
医者というのは、高所得者の代名詞にもなっており、治療代は高いのが相場である。昨今では病院も設備産業となり、非常に高価な機械類を購入しなければ、成り立たなくなっている。そんな中、機械の購入費も診療代に跳ね返ってくる。医療は進歩したが、それに伴って医療代も上がってきている。そうなると、「地獄の沙汰も金次第」ではないが、命の長さも貧富の差となってきかねない。

外科的手法を持たない江戸時代以前にあって、医師が頼るのは投薬療法でしかなかった。
そこで、もうひとつ思いだしたことがある。
実家のある豊島区にあった「太陽堂」という小さな薬局の店長さんだ。
年の頃では50過ぎ、60前。痩せ型で背が高く、声も高かった。いつも白衣を着ていた。
店員も「店長」でなく「先生」と呼んでいた。
こう書くと、はったりをかませた人のような印象を持たれるかも知れないが、実際は話していると妙に落ち着く人だった。
「先生」は、人の話を聞くのがうまく、ぴったりと合う薬を出してくれた。
たとえば、口内炎になったときなども、口内炎用の薬ではなく、ビタミン剤を出してくれて、飲む量も指示されていたように思う。そして指示通りにしていると、すぐに治った。

想像でしかないのだが、永田の時代にあって、将軍の侍医たちは、自らの能力を過信し、臨床例から導き出された薬を一方的に処方していたのではないだろうか。
永田は問診により、的確に秀忠の病気を把握した。
とすれば、コミュケーション能力の差なのかも知れない。
もっと突き詰めて考えていくと、「病人を治したい」と思うのか、「金が欲しい」と思っているのかの違いだ。
一八文しか要求しない永田の態度は秀忠にとっては好ましく映ったであろうし、一方の永田にとっては保守的で日常の勤務に汲々としていた侍医たちに強烈な皮肉を放って、自分の生き方を示したのだろう。

金銭は大事だけれども、全てではない。
ローンやら、扶養家族やら何だかんだとしがらみの多い現代人であるが、永田のような生き方もひとつの理想形である。

ここまで、書いてきて、「永田徳本」の読みを書いていなかった。
ながたとくほん、である。
名前のほうは、とくほん、と読む。
どこかで聞いた名前ではないだろうか。
湿布薬のトクホンの由来である。

参考:日本医学先人伝(橘輝政)医学事業新報社

トクホンの名前の由来

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ヴォーリズと同志社カレッジソングとカレーライス~2

2013年07月31日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
二宮尊徳は「経済なき道徳は寝言である」と言った。
金原明善は「汚ない金もきれいなことに使えばきれいな金だ。きれいな金も汚ないことに使えば汚ない金だ」と喝破した。
ヴォーリズはメンソレータムで儲けた金を私欲のためには使わなかった。
サナトリウムを建て、学校を建て、社会活動に使った。
聖書の一説、

わたしたちは何も持たずに生まれ、世を去るときは何も持っていくことができない。食べるものと着る物があればわたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根源です。
(テモテⅠ 六・・・六~一〇)


をヴォーリズは忠実に実践したと言う。その考えは当時の近江兄弟社の給料制度にもよく現れている。
岩崎侑氏の「青い目の近江商人」を引用する。

管理職と雑役の従業員との給料に差はない。給料は相対的能力によるものではなく、相対的必要性によって決まる。例えば、独身者は十人の家族を抱える人物ほどには金を必要とはしない。(中略)給料を個人や家族のニーズに合わせるということだ。

個人の固有財産を持つことは禁じられていないものの、認められてはいない。

ヴォーリズ夫妻は衣類以外には何も持っていない。彼らは銀行に1ドルたりとも持っていない。彼らのサラリーは残ったら分配される。実際、近江兄弟社のメンバーはすべてこの上なく幸福で、無一文の状態なのである。


こうして書くと、なんだかカルト宗教のような印象を持つ人もいるかも知れないが、近江兄弟社は宗教団体ではない。
ただし、若き日のヴォーリズが雷に打たれたように感じとった使命(キリスト教の伝道)からすると、宗教団体っぽくなるのは当然の帰結である。
近江兄弟社の社綱領の第一条には、

近江兄弟社は近江の国において教派に関係なく、基督の福音を宣伝実践する事をもって、目的とする。

と明言している。
また、社綱領の第六条には、

近江兄弟社は、禁酒、禁煙、貞潔、思想の向上、冠婚葬祭・慣習の合理化実践、体育衛生・社会文化の向上進歩に努力し、青少年教育、社会風致の改善に従事する。


とあり、社員は禁酒、禁煙を求められる。
何かやはり固い印象を持つが、近江兄弟社が今も統一理念を「信仰と事業の両立による社会奉仕活動の実践」としている以上、当然なのであろう。
大事業を成し得ても、禁酒、禁煙、資産もなしという生き方を窮屈なものと捉える人もいるだろうが、何かを得るためには、何かを手放さなければならない。
幸福とは、何を手放し、何を得るか、の取捨選択に掛かっていると言っても過言ではない。
ヴォーリズが手放したものは多かったが、得たものはもっと多かったに違いない。

ただし、ヴォーリズがただの慈善家、「ひとのいいおじさん」だったかというと、そうではない。
ヴォーリズは、ときには厳しい商人でもあった。
ヴォーリズは語っている。

ビジネスは商人にとって教育や医療や伝道などの活動と同じように、社会奉仕であり、公共の利益のために取引者相互が尽くすべき一つの信頼であって、自己の利益を得るための戦いではない。

良心的で優れた仕事を成したあとには、正当な報酬を得なければならない。冒頭の二宮尊徳や金原明善にも繋がる考え方である。
理想の前には、しっかりとした暮らしがなくてはならない。
暮らしを支えるのは、しっかりとした仕事である。
熱心な基督信者であったヴォーリズが熱心な商人であったのは、ちっとも矛盾しなかったのである。

今津のヴォーリズ資料館に行くと、昼にはカレーライスが食べられる。
価格は、なんと300円。
肉は使わず、地元野菜を使った優しい味で、米は黒米(炊くと桜色になる)を選ぶこともできる(黒米の場合は330円)。
また、ヴォーリズセット300円もある。こちらはライスに漬物と野菜のみそ汁というシンプルなセットだが、この味噌汁が野菜たっぷりで素晴らしい。
どちらも、「御馳走」というよりは寺で頂く精進料理のような感じで、ほっとする味だ。

また調べていると、同志社大学のカレッジソングはヴォーリズが詩を付けたという文に出くわした。
意外なところで意外な事実があるものだ。





ヴォーリズ資料館:滋賀県高島市今津町今津175番地 0740-22-0981 
休館日:月曜、年始年末

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参考資料
青い目の近江商人~ヴォーリズ外伝(文芸社)岩原侑


ヴォーリズと同志社カレッジソングとカレーライス~1

2013年07月29日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880年10月28日~1964年5月7日)。
アメリカ合衆国カンザス州に生まれ、日本に帰化した人物。
建築家、実業家にして熱心なプロテスタントの布教家。
彼の設計した建築物には関西学院、神戸女学院、大丸心斎橋店などが今も現存する。
と、ここまで書いてもピンと来ない人が多いと思うが、ヴォーリズの興した会社が近江兄弟社だと言ったら、ある年代以上の人には分かるかも知れない。
近江兄弟社はメンソレータムを製造・販売していた会社だ。
現在、メンソレータムはロートが販売権を持ち、近江兄弟社はメンタムを販売している。
ヴォーリズの名前は知らなくとも、メンソレータムなら大概の日本人は知っている。
近江兄弟社という会社名を風変わりな社名と捉えた人も多いのではないだろうか。わたしもそうだった。
兄弟が経営していた会社なのだろうか?
社名も変わっているし、そもそもヴォーリズとはどのような人物だったのであろう。

コロラド大学で建築学を学んでいたヴォーリズ青年は、一方でYMCA活動を熱心に行っていた。
カナダのトロントで開かれたYMCAの世界大会に参加したヴォーリズは、大会開催中に行われた講演会で中国で殉死した少年の話を聞き、天の啓示を受ける。
「お前はそこで何をしているのか」とキリストが直接語って来たかのように思った、と後にヴォーリズは回顧している。
講演会を境に、ヴォーリズは建築家としての道を捨て、宣教師への道を選ぶ。
1904年(明治38年)2月に26歳で滋賀県近江八幡市に英語の高校教師として来日。
彼が日本を選んだのは、殉教に困難な地を選んだからだという。
高校教師として生徒の信望も上々であったが、ヴォーリズの熱心な布教活動が保守的な田舎での反発を招く。
ときは、日露戦争のころである。
二年後の1906年には教職を解雇される。
不運であったが、この苦い経験が後の幸運に繋がる。

ヴォーリズは支援者の力を借りながらも京都に設計事務所を設立。
その後、シカゴでメンソレータム社の創業者A・A・ハイド氏と知り合い、日本でのメンソレータムの販売権を認められる。
ヴォーリズ合名会社を設立して実業家の道を歩むともに、近江ミッションという布教団体を創設し、近江八幡を中心とした布教活動にも力を入れる。

ヴォーリズの会社が一層の発展を遂げるのは、1920年、メンソレータムを販売するようになってからである。
近江セールズ株式会社を設立し、設計とメンソレータムの販売を二本の柱とする。
ヴォーリズがメンソレータムの販売権を得てから、日本での販売が10年もの日数を要したのは、設計の仕事、布教活動に多忙を極めた点と、メンソレータムが日本の風土に受け入れられるかはっきりと分からなかったからであろう。
実際、売りだした当時はまったく売れなかった。
価格も12g入りが現在の価格に換算して千円程度で、現在のメンタムの定価の3倍以上だった。
この価格で売れれば、ボロ儲けといってもいいくらいの高収益である。
当初は売れなかったメンソレータムは、次第に売れ行きを伸ばし、国内生産しなければ間に合わないほどになった。
ヴォーリズは、事業によって得たこの収益を何に使っていたのだろうか。
ヴォーリズが会社で得た収益を何に使っていたかを知ることが、近江兄弟社の社名の由来や、彼の考え方に繋がる。

~続く


大正12年に建てられた今津にある旧百三十国立銀行(現・滋賀銀行)。現在はヴォーリズ資料館として一般開放されている。

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高野長英とその死因

2013年05月06日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
高野長英。
文化元年(1804年)5月5日に陸奥水沢に生まれる。
嘉永三年(1850年)10月30日死す。
長英を見ていると、人間の運、不運というものを感ぜずにはいられない。

長英は当時オランダ語学の最高水準を持っていただけでなく、商才もあった。
神崎屋源造に薬品の製法を授け、多大なる益を得させている。
もっとも、その利益を長英自ら得て、贅沢をした訳ではない。
ただただ、長英は自らの実力を誇示したいという気持ちがあっただけであろう。

その長英は、「戊辰夢物語」において、諸外国を打ち払ってまで鎖国を続けようとする幕府の姿勢を批判した。
時に天保八年、大坂で大塩平八郎の乱が起きて、幕府がぴりぴりしている頃である。
翌々年の天保十年に蛮社の獄が起き、長英は牢獄に繋がれる。
長英はこの天保十年から、天保十五年六月まで五年の永きに亘り、牢獄の住人となっていた。
当時、懲役という刑罰はなく、牢獄は未決囚が押し込められている場所であった。
ここまで永く長英が牢獄に入れられていたというのは、世論を恐れた幕府が長英に極刑を言い渡せなかったからである。
不潔な牢獄で、勝手に病を得て、勝手に死んで欲しい、というのが幕府の本音だったであろう。

しかし、長英は別の道を選ぶ。
自らの牢獄に火を放ち、脱獄する道である。
脱獄してからの長英は、様々な土地へ行き、英邁な藩主や、進取の気性に富んだ人々の庇護を受けている。
この頃には、昔の剃刀のように頭脳明晰だが、傲慢なだけの長英ではなくなっていたであろう。
そして、限りある自分の余生について想いを寄せていたに違いない。
敢えて危険を犯してまで、江戸に戻ったのもそうしなくてはならならい理由があったからだ。
その際に自ら薬品で顔を焼いたのは、もちろん人相を変えるという意味もあったのだが、自らの決意を忘れまいとした、とは考えられないだろうか。

江戸に潜伏した長英は沢三伯という偽名を使い、医者を生業とした。
庭に木の葉を敷いて、町方の踏み込みには警戒していたが、「往診をお願いします」という声に油断して出たところ、町方に取り囲まれたと言う。
応戦したが、多勢に無勢、最期は自ら短刀で喉を突いて自害したというが、真相は、長期の逃亡を許した責を負っていた町方が殴り殺してしまったらしい。
咎人は生け捕りが原則であるから、ダブルのミスを指摘されないように、町方が「自殺」というシナリオを描いた。
当時、指揮をとっていたのは鳥居耀三。
江戸末期に咲いたいかにも毒キノコ然とした毒キノコである。

長英が死して三年後の嘉永三年(1853年)、ペリーが浦賀に来航。
早過ぎた長英の死であった。

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高橋東岡と伊能忠敬

2013年04月16日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
伊能忠敬。
日本測量史に燦然たる輝きを残した人物であり、現在も知名度は極めて高い。
高橋東岡。
本名、高橋作左衛門至時。大坂奉行所の同心の息子として生まれ、後に暦学者として第一の地位を占めるようになった人物である。
この東岡の下に忠敬が弟子入りしたのは寛政七年(一七九五年)。
歴史に詳しい方ならば、忠敬はかなり年下の師匠に弟子入りしたと覚えておられるかも知れない。その師匠が東岡である。
東岡の息子は高橋景保という。
景保は、シーボルトに御禁制の日本地図を渡した咎により、牢獄に繋がれ獄中死した。いわゆるシーボルト事件であるが、この事件で記憶されている方もおられるだろう。
東岡の名は忘れられ、息子の景保は本人の意思とは無関係な場所で歴史に名を刻んでしまった。
歴史的な観点からは、正確な日本地図を作った忠敬は偉大であり、寛政暦を作った東岡の名は後世にあまり伝えられていない。

忠敬が江戸にいる景保の下に弟子入りしたのが五一歳のとき。景保はまだ三十二歳に過ぎない。二十歳近く年の差ががあったが、忠敬は全く気にしなかった。
もともと平均寿命が今よりも短い江戸時代にあって、五十歳から新しいことを始めようと決意するのは容易なことではなかった。
容易でない事柄を成そうと決意した忠敬は年齢とか世間体などはどうでもいいことだったのだろう。

忠敬は十七年の永きに亘り、日本国中を測量し、詳細な日本国地図を完成させる。
その際、幕府に忠敬の登用を強く推薦したのが東岡である。
測量によって学者としての忠敬の地位は不動のものとなったが、その地位は東岡の働きかけなしには築けなかった。

東岡は忠敬よりもかなり年下であったのに、忠敬より早世した。
東岡が亡くなってから、忠敬は江戸にいれば毎日、東岡の墓である源空寺に足を向け、地方にあっては江戸の方角に礼拝するのであった。
そして、最期は遺言により、東岡の墓の隣に埋葬して貰ったのである。
忠敬の考え方は、江戸時代の封建思想に基づいた抹香臭い考え方なのであろうか。

スポーツ界を見ていると思うのだが、現代では師弟関係はビジネスになってしまった。
師匠は見込のない弟子はすぐに見捨てるし、弟子も師匠を見限る。
もちろん、そうでない関係もあるのだろうが、日本の師弟関係は浪花節的な考えから、欧米流の契約社会的な考えに移行しているように思う。
師は弟子の能力を伸ばすことを約束し代償を得る。
弟子は約束が契約通り履行されているかどうか確認し、不履行の場合は、契約を破棄する。
忠敬は自らの努力もあり、師匠の東岡の実績を抜いた。
契約社会的な発想であれば、契約は履行されたということになる。
それは、なんと冷たい考え方であろう。

恩という言葉が封建的で古臭い感じがするのは否めない。
だが恩は契約の中で生まれるものではない。新しいとか、古い、といった観点で見るのではなく、日本人に備わった美徳であると考えるほうがいいのではないだろうか。
与えられた恩は忘れず、自分が受けた恩を誰か別の者に返していく。
恩とは他人だけのものではなく、自分自身のものでもある。
与えられた恩を回していくと、運気も向上するはずだ。

東岡にまつわるエピソードとして次のようなものがある。
東岡の家は貧しく、季節になると庭になった柿を売って家計の足しとした。
夜中になると悪ガキたちが来て、その柿の実を盗んで行ってしまう。
東岡は屋根に登り、天体を観測しているのだが、悪ガキが柿を盗みに来ないか、再三にわたり庭をも気にしていなければならないので、気が散って仕方なかった。
ある日、外出から帰ってくると、柿の木が根本からばっさりと切られている。
妻に問うと「切ったのは私です。あなたは屋根に登っても空と下を交互に気にしておられます。そんな学問の邪魔をする木は、切ってしまったのです」
と答える。
東岡は妻の意気に感謝し、その後、ますます精進して、学者としての地位を築いた。
何か、いい話だ。

師を敬い続けた忠敬も、東岡も人間的な魅力に満ちていた人物だったに違いない。

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