聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ9:7 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、
9:8 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。
9:9 しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

ヘロデは、人々がイエス様のことをヨハネがよみがえったのではないかとうわさしているのを聞いて、当惑していたと記されている。
当惑したということは、理解できないか、あるいは、事実を受け入れられなくて、どう捉えたらよいのか困惑しているということであろう。
ヨハネなら自分の手で殺したはずだから、そのヨハネが生き返ったとするならば、あるいは、仕返しにやってくるのだろうか、とはいえ、あのヨハネなら、それほど凶暴でもないし、何度現れようと、命を奪うことは出来るのだが、そんなことを何度も繰り返す意味があるのだろうか等、ヘロデの戸惑いは大きかったのだろう。
しかし、彼自身にヨハネに対する恐れのようなものはなかったのだろう。
何度生き返って来ようと、何度でも殺すまでだと、そのように考えたかもしれない。
けれども、もしそれが永遠に続くとしたらどうなるか。
考えも及ばない現実の前に、まさに、途方に暮れるような思いだったかもしれない。

私たちも、この世の出来事の前に、どう対処してよいかわからず、途方にくれてしまうことが多々ある。
けれど、それは、その出来事に対して、自分の受け入れる容量が追いついていないからであって、何事も全て理解しようと思うとき、途方に暮れてしまうのではないだろうか。
世の中には、私自身の中で、全て理解し、受け入れることのできないものがあってもいい。
むしろ、そういうことの方が多い。

先日、ある方と聖書の学びをしたが、聖書のこと、神様のこと、すべて理解してから洗礼を受けるという人はまずいない。
重要と思われることが分かっていれば、それでいいし、今は分からないことも、時間をかけて少しずつ理解していけばいいと思う。
自分ですべてを支配しようと思えば、戸惑いも多いが、現実と向き合い、理解できないところはそのままに、受け入れることのできるところから受け入れていく、そのような仕方で少しずつ歩みを進めていければと思う。

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