聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ルカ 1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

サムエル記上 1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。
1:2 エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。
1:3 エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。
1:4 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、
1:5 ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。
1:6 彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。
1:7 毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。
1:8 夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」
1:9 さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。
1:10 ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。
1:11 そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
1:12 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。
1:13 ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、
1:14 彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」
1:15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
1:16 はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、
1:17 「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
1:18 ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。

ヘブル 9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。
9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。
9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、
9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。
9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。
9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。
9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。
9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。
9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、
9:14 まして、永遠の"霊"によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。



私たちは、神様のご加護を求め、神の御前に集い、祈り、礼拝をする。
毎週日曜日の礼拝は、そのような場である。
しかし、本当なら、神に御前に立てるような者ではない。
罪深く、汚れたものであり、神の御前に近づこうものなら、一瞬で焼き滅ぼされてもおかしくはない。
けれども、主なる神様は、私たちを愛して下さった。
神のすぐそばに集う事ができるよう、隔ての壁を取り払って下さったのである。
それは、神の御子イエス・キリストの命をいけにえの犠牲として十字架に捧げることで、全ての罪や汚れに対する処罰をなされたことによって成し遂げられている。
こうして私たちは、永遠の救いを受け、安心して神の御前に出ることができるようになった。
全ては神の恵みと憐れみによる。
主なる神様が、そこまでして私たちを愛して下さったのだ。
もっと大いに喜んで神の御まえに立とうではないか。
何を祈ってもいいし、どんな賛美を捧げてもいい。
主なる神は御子イエス様の命を捧げても構わないほどに、私たちを愛して下さったのだ。
安心していよう。

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