聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




列王記上 13:1 主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来たときも、ヤロブアムは祭壇の傍らに立って、香をたいていた。
13:2 その人は主の言葉に従って祭壇に向かって呼びかけた。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼く。』」
13:3 その日、この人は更に一つのしるしを与えて言った。「これが主のお告げになったしるしである。『見よ、祭壇は裂け、その上の脂肪の灰は散る。』」
13:4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって呼びかける神の人の言葉を聞くと、祭壇から手を伸ばして、「その男を捕らえよ」と命じたが、その人に向かって伸ばした彼の手は萎えて戻すことができなかった。
13:5 神の人が主の言葉に従って与えたしるしが実現して、祭壇は裂け、その祭壇から脂肪の灰が散った。
13:6 王が神の人に、「どうか、あなたの神、主をなだめ、手が元に戻るようにわたしのために祈ってください」と言ったので、神の人が主をなだめると、王の手は元に戻って、前のようになった。
13:7 王は神の人に、「一緒に王宮に来て、一休みしてください。お礼を差し上げたい」と言ったが、
13:8 神の人は王に答えた。「たとえ王宮の半分をくださっても、わたしは一緒に参りません。ここではパンを食べず、水も飲みません。
13:9 主の言葉に従って、『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められているのです。」
13:10 その人はベテルに来たとき通った道に戻ることなく、ほかの道を通って帰って行った。

詩篇 119:169 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
119:170 わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
119:171 わたしの唇から賛美が溢れるでしょう あなたが掟を教えてくださいますから。
119:172 わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
119:173 あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう あなたの命令を選び取ったのですから。
119:174 主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。
119:175 わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きがわたしを助けますように。
119:176 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

ローマ 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。




ローマ書に書かれている事柄は、私たち人間には、救いを達成することのできるような良いところが何一つないといったことが明確に語られている。

わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。
正しい者はいない。一人もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。

そして、それゆえ、神の裁きは全ての人に対して向けられていることが語られる。

すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。

これらの表現に共通することは、何一つも妥協したり、例外を認めるようなことのない「全て」であり「完全に」ということである。
そんな「妥協なき」「例外なき」神の裁きのゆえに、神は御子イエス様を贖いの犠牲として十字架に捧げられたのである。
このことは一見厳しいことのように思えるが、だからこそ、私たちの救いも完全なものとなりうるのである。
誰一人、救われないことはないし、完全なる救いが約束されているのだ。
なんと有難いことであろう。
なんと幸いなことであろう。
十字架のイエス様を見あげ、このお方の御業のゆえに、私の救いも完全であることを覚えつつ、感謝と平安のうちに歩ませていただきたいものである。



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ヨシュア記 6:22 ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。
6:23 斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
6:24 彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。
6:25 遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。
6:26 ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は 主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い 城門を建てたときに末子を失う。」
6:27 主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。

詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。

マタイ 21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」




エリコ攻略のために尽力したラハブは、遊女であり、きっとエリコの町の人たちからはラハブはもちろんのこと、家族や親族一同、人々から見下されていたものと思われる。
そういった理由もあってであろうか、ラハブはエリコの町の人たちよりも、イスラエルの人たちに味方し、エリコ攻略の手助けをすることとなったのかもしれない。
人がどんな仕事に携わっていようと、同じ人間であり、今の時代なら、人権を尊重し、差別をしてはならないといったことが叫ばれるようになっているが、当時のイスラエルの社会では、そういったことはお構いなしで、ある人たちは「汚れたもの」として扱われたり、人としてではなく、なにか汚れた動物でも見るかのような接し方をしていたのかもしれない。
しかし、どんなに時代が変わろうと、人権が声高に叫ばれようと、人間社会において、差別や偏見は無くならない。
人間が罪人であり、自己中心的な存在である以上、それは避けることのできない問題なのだろう。
祭司長や民の長老たちは、イエス様が神の言葉を教えたり、困っている人を助けたりしているのをみて、いったい何の権威でそのようなことをするのかと批判しているが、困っている人や苦しんでいる人を助けたりすることに、いったいどんな権威が必要だというのだろう。
できることは、誰の許可を得ずとも、すれば良いだけのことであろう。
また癒される人、救われる人の側にも、なんの差別もあってはならない。
誰もが救われるべきであり、滅んでいい人などこの世界には一人もいないし、少なくとも、主なる神様はそう願っておられる。

Ⅰテモテ神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。


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ヨシュア記 2:15 ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
2:16 彼女は二人に言った。「追っ手に会わないように、山の方へ行きなさい。三日間はそこに身を隠し、追っ手が引き揚げてから帰りなさい。」
2:17 二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。
2:18 我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。
2:19 もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。
2:20 もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」
2:21 ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。
2:22 二人は山に入って行き、そこに三日間とどまって、追っ手が引き揚げるのを待った。追っ手はくまなく捜したが、見つけ出すことはできなかった。
2:23 その後、二人は帰途につき、山を下り、川を渡って、ヌンの子ヨシュアのもとに戻り、自分たちが経験したことを一部始終報告して、
2:24 こう言った。「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」

詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。

ヤコブ 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。




ヨシュアがエリコの町の偵察のために遣わした二人の斥候(スパイ)は、城壁の中に住むラハブによってかくまわれ、難を逃れることとなった。
そのため、イスラエルの軍がエリコの町を攻める時には、戦いの混乱の中、命を落とすことにもなりかねないので、決してその家から外に出ないように命じ、目印として窓に真っ赤なひもをつるしておくよう、ラハブとその家族を助けることを約束し、ラハブのもとを去っていくのである。
斥候との約束を守れば、ラハブとその家族は助かるし、恐れや不安に負けて外に出てしまえば、命を落とすことになるかもしれず、ラハブとその家族の命運は、約束を守るかどうかにかかっていた。
私たちの生きる世界においても、いつ何時、何が起きるか分からないし、恐れや不安がないと言えばうそになる。
しかし、主なる神様が私たちを救い、永遠の命を与えて下さると聖書には約束されていて、その約束を信じて生きるならば救われる。
つまり、どう生きるかが問われている、ということであろう。
ヤコブの手紙では、人が救われるのは信仰だけによるのではなく、行いによると語られ、まるでローマの手紙に語られているような「人は行いによるのではなく信仰によって救われる」という教えと真っ向から対立するようなことが語られているように見えるが、ヤコブの手紙で語られているのは、信仰によってどう生きているかが重要である、ということなのだろう。
神の救いの約束を信じていても、それに対し、これまでと何ら変わりなく、信じていない時と同じ歩みをしているのなら、それは「行いのない信仰」となってしまい、信じているとも言えないのかもしれない。
何をするか、どう生きるかは、その都度、その人人によってちがうだろうから、一概に「こうあるべき」とは言えないかもしれないが、神の救いを信じたからこそできる生き方というのがあるのだろう。
主なる神様は、御子イエス様の命をかけてあなたを救って下さる。
それに対して「あなたはどう生きるか」、それが問われている。


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ヨシュア記 2:1 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
2:2 ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、
2:3 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
2:4 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
2:5 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
2:6 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
2:7 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
2:8 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、
2:9 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。
2:10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
2:12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。
2:13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
2:14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」

詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。

ヘブル 11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。




昨夜、教会員の方が天に召された。
臨終の瞬間には間に合わなかったけれど、すぐにかけつけ、ご遺族の方々と共に臨終の祈りの時を持った。
ご遺族の方からは、ついさっきまで会話しておられたご様子を撮影した動画を見せていただき、最後の瞬間まで必死に生きようとしておられたお姿も見せて頂いた。
いつもと変わらない、ときおり笑顔も見せながらの会話だった。
人は人生の最後の瞬間まで、その人らしく生きるものである。
聖書に記されている信仰の先達たちは、人生の最後の瞬間に至るまで、神を信じ、家族の祝福を祈りつつ、天国へと旅立って行った。
死は辛く、悲しい出来事かもしれないが、主イエスさまが伴って下さり、主なる神様のみもとへと連れて行って下さるのだ。
最後の最後まで神と共に歩む人生は、なんと幸いなことであろう。
ご遺族の方々に主の慰めを祈りつつ、お見送りしたい。




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士師記 15:9 ペリシテ人は、ユダに上って来て陣を敷き、レヒに向かって展開した。
15:10 ユダの人々は、「なぜ我々に向かって上って来るのか」とただしたところ、彼らは、「攻め上って来たのはサムソンを縛り上げ、我々に対する仕打ちのお返しをするためだ」と答えた。
15:11 ユダの人々三千人が、エタムの岩の裂け目に下って行き、サムソンに言った。「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。なんということをしてくれた。」サムソンは答えた。「彼らがわたしにしたように、彼らにしただけだ。」
15:12 彼らはサムソンに言った。「我々は、お前を縛ってペリシテ人の手に渡すためにやって来た。」サムソンは言った。「あなたたちはわたしに害を加えないと誓ってくれるか。」
15:13 彼らは言った。「我々はただお前を縛って彼らの手に渡すだけだ。殺しはしない。」彼らはこうして、新しい縄二本でサムソンを縛り、岩から連れ出し、上って来た。
15:14 サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。
15:15 彼は、真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した。
15:16 そこで彼は言った。「ろばのあご骨で、ひと山、ふた山 ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」
15:17 こう言い終わると、彼は手に持っていたあご骨を投げ捨てた。こうして、その場所はラマト・レヒ(あご骨の高台)と呼ばれるようになった。
15:18 彼は非常に喉が渇いていたので、主に祈って言った。「あなたはこの大いなる勝利を、この僕の手によってお与えになりました。しかし今、わたしは喉が渇いて死にそうで、無割礼の者たちの手に落ちようとしています。」
15:19 神はレヒのくぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされた。彼はその水を飲んで元気を取り戻し、生き返った。それゆえ、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれ、今日もレヒにある。
15:20 彼はペリシテ人の時代に、二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。

イザヤ 38:10 わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか 陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。
38:11 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり 消えゆく者の国に住む者に加えられ もう人を見ることもない、と。
38:12 わたしの生涯は羊飼いの天幕のように 引き抜かれ、取り去られてしまった。わたしはわたしの命を織物のように巻き終わり 糸から切り離されてしまった。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:13 夜明けまでわたしはそれを甘んじて受け 獅子に砕かれるように わたしの骨はことごとく砕かれてしまう。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:14 つばめや鶴のように わたしはすすり泣きの声をあげ 鳩のようにわたしは呻く。天を仰いでわたしの目は弱り果てる。わが主よ、わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人となってください。
38:15 わたしは何と言えば答えてもらえるのか そのようなことをなさる主に。わたしは心に苦痛を抱きながら すべての年月をあえぎ行かねばならないのか。
38:16 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。
38:17 見よ、わたしの受けた苦痛は 平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ 滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて あなたの後ろに投げ捨ててくださった。
38:18 陰府があなたに感謝することはなく 死があなたを賛美することはないので 墓に下る者は あなたのまことを期待することができない。
38:19 命ある者、命ある者のみが 今日の、わたしのようにあなたに感謝し 父は子にあなたのまことを知らせるのです。
38:20 主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で わたしの音楽を共に奏でるでしょう。

マタイ 17:14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、
17:15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
17:18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。
17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
17:21 しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。





人が生きていく時、様々な困難や苦しみがある。
一般的なもので言えば、病がそうであろう。
多くの人が病に苦しんでいる。
そして、病が癒されるためには、服薬や手術による治療が必要であると考える人が多い。
しかし、それらはあくまで対処療法の一環であって、それ自体が病を癒す唯一の方法であるというわけではないだろう。
医療もどんどん進歩し、癒せない病などないかのように思う人もいるかもしれないが、どんなに医療技術が進歩しても、完全には癒すことはできないし、あくまで治癒の助けとして捉えておく必要はあるだろう。
しかし、イエス様が行われた癒しの業は、病そのものを癒す力があるようである。
そもそも、この世界の全ての命をも創られたお方であるから、そうしたことも可能なのであろう。

マルコ10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

このことは事実であり、この事実に信頼することこが「信仰」なのであり、信仰があれば、すなわち、神の御力に頼り、神に働いてもらえるならば、癒しも完全なものとなる、ということなのであろう。
だから、私たち人間にできることは「祈る」ことだけである。
神に働いていただけるよう、祈るのである。
私たちの力では成し得ない、神の御業が行われるよう、信じて祈り続けていきたいものである。


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ヨシュア記 8:1 主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。
8:2 エリコとその王にしたように、アイとその王にしなさい。ただし、分捕り物と家畜は自分たちのために奪い取ってもよい。あなたは、町を裏手からうかがうように伏兵を置け。」
8:3 ヨシュアは全軍隊を率いて行動を起こし、アイへ攻め上った。ヨシュアは三万の勇士をえりすぐって夜の間に送り込み、
8:4 彼らに命じた。「見よ、あなたたちは裏手から町をうかがう伏兵であるから、町からあまり離れず、全員、態勢を整えておきなさい。
8:5 その他の全軍はわたしと共に町に近づく。敵がこの前と同様、我々を迎え撃とうと出て来たなら、我々は退却する。
8:6 敵は、我々がこの前と同様、退却して行くと思って、追撃して来るであろう。そうすれば彼らを町からおびき出せる。我々が退却している間に、
8:7 あなたたちは待ち伏せしている所から出て、町を占領しなさい。あなたたちの神、主は町をあなたたちの手に渡してくださる。
8:8 町を取ったらこれに火を放ち、主の言葉どおり行いなさい。見よ、わたしはこう、あなたたちに命じている。」
8:9 ヨシュアがこうして、彼らを遣わしたので、彼らはアイの西側、ベテルとアイの間の待ち伏せの場所に行って待機した。民と共にその夜を過ごしたヨシュアは、
8:10 翌朝早く起きて民を召集し、イスラエルの長老たちと共に、その先頭に立ってアイに向かって上った。
8:11 ヨシュアに率いられた全軍は攻め上って、町の入り口近くに達し、谷一つ隔ててアイの北側に陣を敷いた。
8:12 彼は約五千人を選び、伏兵として町の西側、ベテルとアイの間に配置した。
8:13 その他の兵は町の北側にすべての宿営を張ったが、最後部は町の西に達していた。その晩、ヨシュアは平野へ下って行った。
8:14 それはアイの王の知るところとなり、町の者も急ぎ起き出し、王とその全軍は、イスラエルを迎え撃とうとアラバに面する戦場に進軍した。王は町の裏手に伏兵がいるとは知らなかった。
8:15 ヨシュアの率いる全イスラエルが彼らに打ち破られたかのように荒れ野の道を退却すると、
8:16 町の全軍も追撃のために呼び集められ、ヨシュアの後を追い、彼らはこうして、町からおびき出された。
8:17 イスラエルを追わずに残った者は、アイにもベテルにも一人もいなかった。しかも、イスラエルの後を追ったとき、町の門は開けたままであった。
8:18 主はヨシュアに言われた。「あなたが手にしている投げ槍をアイに向かって差し伸べなさい。わたしはアイをあなたの手に渡す。」ヨシュアが手にしていた投げ槍を町に向かって差し伸べると、
8:19 伏兵は一斉にその場所から立ち上がり、ヨシュアが手を伸ばしている間に町に攻め込んで占領し、直ちに町に火を放った。
8:20 アイの兵士が振り返って見たときには、既に町の煙は天に達しており、荒れ野に逃げた軍勢も追っ手に対して向き直ったので、彼らはどこにも逃げることができなくなってしまった。
8:21 ヨシュアの率いる全イスラエルは、伏兵が町を占領し、町から煙が立ち昇るのを見ると、向きを変えてアイの兵士に打ちかかり、
8:22 伏兵も町を出て彼らに向かったので、彼らはイスラエル軍の挟み撃ちに遭い、生き残った者も落ちのびた者も一人もいなくなるまで打ちのめされた。
8:23 アイの王は生け捕りにされ、ヨシュアのもとに引き出された。

イザヤ 38:10 わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか 陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。
38:11 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり 消えゆく者の国に住む者に加えられ もう人を見ることもない、と。
38:12 わたしの生涯は羊飼いの天幕のように 引き抜かれ、取り去られてしまった。わたしはわたしの命を織物のように巻き終わり 糸から切り離されてしまった。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:13 夜明けまでわたしはそれを甘んじて受け 獅子に砕かれるように わたしの骨はことごとく砕かれてしまう。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:14 つばめや鶴のように わたしはすすり泣きの声をあげ 鳩のようにわたしは呻く。天を仰いでわたしの目は弱り果てる。わが主よ、わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人となってください。
38:15 わたしは何と言えば答えてもらえるのか そのようなことをなさる主に。わたしは心に苦痛を抱きながら すべての年月をあえぎ行かねばならないのか。
38:16 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。
38:17 見よ、わたしの受けた苦痛は 平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ 滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて あなたの後ろに投げ捨ててくださった。
38:18 陰府があなたに感謝することはなく 死があなたを賛美することはないので 墓に下る者は あなたのまことを期待することができない。
38:19 命ある者、命ある者のみが 今日の、わたしのようにあなたに感謝し 父は子にあなたのまことを知らせるのです。
38:20 主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で わたしの音楽を共に奏でるでしょう。

ヘブル 12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。
12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。





人は長く生きていれば、いろいろなことが起きる。
良いこともあるが、自分にとって好ましくないと思えるようなことも経験する。
できることなら辛いことは経験したくはないが、人はそういう経験を重ねていくことで強くなっていくこともまた確かである。
ヘブル人への手紙の箇所では、主なる神様は、意味もなく私たちにそのような試練を経験させるのではなく、強く生きることが出来るように鍛錬するものでありつつ、同時に、主イエス様もまた私たちのためにそのように生きられたお方であることを思い起こさせるものであることが語られている。
イエス様は何の罪を犯されたことのないお方であるにも関わらず、私たち人間の犯した罪の責任を引き受け、ただ一人、十字架の死の裁きを引き受けて下さったのである。
そのおかげで、私たちはもはや自分の罪のゆえに裁きを受けることがなくなるのであり、イエス様がこの私のために死んで下さったということを信じることで、このような幸いな救いの約束を受けることが出来るのである。
なんとも幸いなことであるが、そのためにイエス様が支払われた犠牲の大きさを覚えたい。
その上で、もし私自身が誰かのために試練を受けるようなことがあるのならば、それによって誰かが恵まれ、救われることにつながるのなら、それもまた感謝なこととして受け止めたいものである。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

私自身だけでなく、私を通して私の周りにいる方々にも主の祝福が広がっていきますように。



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ヨシュア記 6:1 エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。
6:2 そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。
6:3 あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。
6:4 七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
6:5 彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」
6:6 ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、
6:7 次に民に向かって、「進め。町の周りを回れ。武装兵は主の箱の前を行け」と命じた。
6:8 ヨシュアが民に命じ終わると、七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。
6:9 武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。
6:10 ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。
6:11 彼はこうして、主の箱を担いで町を回らせ、一周させた。その後、彼らは宿営に戻り、そこで夜を過ごした。
6:12 翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、
6:13 七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武装兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。
6:14 彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、
6:15 七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった。
6:16 七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。
6:17 町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。
6:18 あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。
6:19 金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」
6:20 角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。
6:21 彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。

イザヤ 38:10 わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか 陰府の門に残る齢をゆだねるのか、と。
38:11 わたしは思った。命ある者の地にいて主を見ることもなくなり 消えゆく者の国に住む者に加えられ もう人を見ることもない、と。
38:12 わたしの生涯は羊飼いの天幕のように 引き抜かれ、取り去られてしまった。わたしはわたしの命を織物のように巻き終わり 糸から切り離されてしまった。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:13 夜明けまでわたしはそれを甘んじて受け 獅子に砕かれるように わたしの骨はことごとく砕かれてしまう。昼も夜も あなたはわたしの息の根を止めようとされる。
38:14 つばめや鶴のように わたしはすすり泣きの声をあげ 鳩のようにわたしは呻く。天を仰いでわたしの目は弱り果てる。わが主よ、わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人となってください。
38:15 わたしは何と言えば答えてもらえるのか そのようなことをなさる主に。わたしは心に苦痛を抱きながら すべての年月をあえぎ行かねばならないのか。
38:16 主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。
38:17 見よ、わたしの受けた苦痛は 平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ 滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて あなたの後ろに投げ捨ててくださった。
38:18 陰府があなたに感謝することはなく 死があなたを賛美することはないので 墓に下る者は あなたのまことを期待することができない。
38:19 命ある者、命ある者のみが 今日の、わたしのようにあなたに感謝し 父は子にあなたのまことを知らせるのです。
38:20 主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で わたしの音楽を共に奏でるでしょう。

ヘブル 11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。
11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、
11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、
11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。
11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。





ヘブル人への手紙の箇所には、旧約聖書に登場する人たちの信仰の歩みが記されている。
彼らは特別に信仰心が強かったとか、信仰によって何事か凄いことを行ったとか、そういう風に思われがちである。
しかし、信仰とは、神を、とりわけ神が語られた言葉や約束された言葉を信じて、その通りに生きる、ということを表す言葉に他ならない。
たとえば、旧約聖書には様々な律法の言葉が記されているが、それらの言葉を語られた通りに守ろうとし、神の言葉に従って生きようとすることを「信仰」と表現しているであろう。
では、私たちが信じて従うべき神の約束の言葉とは何であろうか。
それを知るためには、新約聖書を見る必要がある。
新約聖書には、神の御子であられる主イエス様が私たちの救いのために自らの命を捨てて十字架で死に、よみがえって下さったことが記されている。
それは、私たちが同じように「習う」ことよりも、むしろ、私たちにできないことを身代わりに成し遂げて下さったと受け取るべきであり、イエス様が私の身代わりに罪の処罰を引き受けて下さったからこそ、もはや私たちが完全に赦され、神の御前に滅ぼされることのない永遠の命を与えられたものとして立たせて頂けるのである。
この救いの約束の言葉を信じて受け入れることこそ「信仰」なのである。
だから信仰とは、それほど難しいことを要求しているわけではなく、むしろ、すっかり神に委ねていられる安心や幸いがあることを覚えたいものである。
神様の愛と祝福を、恵みと平安を、喜んで受け取ろうではありませんか。


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イザヤ 33:1 災いだ、略奪されもしないのに、略奪し 欺かれもしないのに、欺く者は。お前は略奪し尽くしたときに、略奪され 欺き終えたときに、欺かれる。
33:2 主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり 苦難のとき、我らの救いとなってください。
33:3 どよめきの声によって、もろもろの民は逃げ あなたが立ち上がられると、国々は散る。
33:4 いなごが奪い去るように、戦利品を奪い去り ばったが跳ねるように 人々はそれに飛びつく。
33:5 主は、はるかに高い天に住まわれ シオンに正義と恵みの業を満たされる。
33:6 主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。
33:7 見よ、アリエルの人々は巷で叫び 平和の使者たちはいたく嘆く。
33:8 大路は嘆き、荒れ果て、道行く者は絶える。人は契約を破り、証人を退け 人を人と思うこともない。
33:9 大地は嘆き、衰え レバノンは辱められて、枯れ シャロンは荒れ地となり バシャンとカルメルは裸になる。

詩篇 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

マタイ 15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。




聖書には、イエス様が多くの病に苦しむ人たちを癒されたことが記されている。
もちろん、それだけがイエス様の働きの全てではないが、イエス様は可能な限り出会われた人たちを癒して行かれたのであろう。
病は誰もが経験することであるが、病というのは、もともとそういう病の種類があったというより、それぞれの症状に苦しんでいる状態のことを表していて、はっきりとここからが病で、ここまでは病ではないといった風に分けられるものでもない。
多かれ少なかれ、誰もが何等かの症状は抱えていて、生活に支障をきたすようになった時に、人は病であると考えるのだろう。
例えば、ガンなども最初は小さな細胞であり、健康な人でもガン細胞を抱えていたりすることもある。
たまたま日常生活を送るのに、なんらかの支障をきたす程に広がっていないために、何もないと考えてしまうけれども、精密に調べて行けば、ガン細胞の一つや二つあってもおかしくはない。
たまたま大きく広がっていないために気づかないということもあるだろう。
一方で、罪の問題はどうだろう。
多くの人が「私は人殺しをしたことはないし、盗んだこともないし、そこまで悪い人ではない」と言った風に考えるかもしれない。
けれど、罪とはそういった、はっきりと表にあらわれてくるような犯罪といった行為だけを示すものでもない。口にはしなくても、心のうちに抱く他者への悪意であるとかも罪に違いないし、おおよそ、全ての人がそういった小さな罪は日々、犯していることであろう。
あるいは、他者に対して思う事はなくても、自分のために生きようとする思い、それもまた罪の性質による。
人は誰も、自分を守ろうとするし、自分を守るために行動しようとする。
それ自体は悪いことでもないが、自己中心の罪はやがて大きな罪へと発展していくのである。
このような罪を抱えたままでは、聖なる神の国に入ることはできないが、イエス様は、こんな私たちのために、身代わりとなって罪の処罰を受けて下さり、十字架で死んで下さった。
それゆえ、イエス様を信じる者は、救いの恵みにあずかることができる。
自分ではどうすることもできない罪の解決をイエス様は与えて下さる。
この方を信じていきたいものである。


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イザヤ 32:1 見よ、正義によって 一人の王が統治し 高官たちは、公平をもって支配する。
32:2 彼らはそれぞれ 風を遮り、雨を避ける所のように また、水のない地を流れる水路のように 乾ききった地の大きな岩陰のようになる。
32:3 見る者の目は曇らされず 聞く者の耳は良く聞き分ける。
32:4 軽率な心も知ることを学び どもる舌も速やかに語る。
32:5 もはや、愚かな者が高貴な人とは呼ばれず ならず者が貴い人と言われることもない。
32:6 愚かな者は愚かなことを語り その心は災いをたくらむ。神を無視し、主について迷わすことを語り 飢えている者をむなしく去らせ 渇いている者の水を奪う。
32:7 ならず者の手管は災いをもたらす。彼は謀をめぐらし 貧しい者が正当な申し立てをしても 乏しい者を偽りの言葉で破滅に落とす。
32:8 高貴な人は高貴なことをはかり 高貴なことを擁護する。

詩篇 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

ローマ 2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。





ローマ人への手紙2章の箇所に記されている事は、とても貴重な証言である。
一般的には、聖書に記されている言葉を聞き、その言葉を信じて従っている人が救いにあずかることができると言われているが、ここでは、聖書の言葉を聞いたことがない人について、もし彼らが聖書の言葉を一度も聞いたことがなくても、自分のうちにある良心が神の御心に沿うものであるならば、その人もまた、神の御前に義とされるであろうことが語られている。
もちろん、神が求めておられる清い生き方というのは、生易しいものではないため、神の言葉を聞いたことはないけれども、神に義とされるほどの良心を持っているということは並大抵のことではないかもしれない。
けれども、その人の持っている良心のゆえに、己の傲慢さや罪深さに気づいているのなら、それで良いのである。
つまり、神さまが期待しておられるのは、その人の持っている良心に基づいて、愛と憐れみに満ちた清い人生を送ることよりも、己の傲慢さや罪深さを顧みることのできる人であることなのだろう。
己の傲慢さや罪深さを知る人は、謙遜に生きるし、結果として、周囲の人たちにも良い影響を与えていくことであろう。
そして、己の傲慢さや罪深さを知っている人には、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと永遠の命の約束が恵みとして備えられていることを覚えたい。
神は全ての人が悔い改めて救われることを望んでいる、からである。


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イザヤ 30:27 見よ、主の御名は遠くから来る 怒りに燃え、立ち昇る濃い煙を伴って。その唇は憤りに満ち 舌は焼き尽くす火のようだ。
30:28 主の霊は、首にまで達する水が 涸れ谷にみなぎり溢れるように臨む。主は国々を欺きのふるいでふるい 迷わす手綱を諸国民の顎にかけられる。
30:29 あなたたちは祭りを祝う夜のように歌い 笛に合わせて進む者のように心楽しみ 主の山に来て イスラエルの岩なる神にまみえる。
30:30 主は威厳ある声を聞かせ 荒れ狂う怒り、焼き尽くす火の炎 打ちつける雨と石のような雹と共に 御腕を振り下ろし、それを示される。
30:31 主がその鞭をもって打たれるとき アッシリアは主の声のゆえにおののく。
30:32 主が彼に下そうと定められた 杭の一打ちごとに 太鼓と竪琴が鳴らされ 主は御腕を振るって彼らと戦われる。
30:33 焼き場は既に用意され 王のために深く広く造られ 燃やすための木が積まれ 多くの薪が置かれ 主の息が焼き尽くす硫黄の流れのように そこに臨む。

詩篇 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。

ローマ 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。





私たちは、ついつい「あの人は良い人だ」とか「あの人はちょっと苦手」とか、あるいは「あの人は悪い人」などと考え、心の中で裁くだけにとどまらず、それが行動にも表れてしまいがちである。
もちろん、悪いことは悪いのだから、きちんと教えたり、修正してあげたりすることは悪いことではない。
しかし、その判断の基準は、果たして本当に正しいものであろうか。
どこかに自分の好みや得手不得手が反映されていたりはしないだろうか。
ローマ2章11節には「神は人を分け隔てはさいません」と語られている。
つまり、自分の好みや都合などで人を差別したりせず、誰をも平等に人として見ていて下さる、ということであろう。
それは簡単なようで、とても難しいこと。
そもそも、私自身、神に愛されるような者であっただろうか。
私が「あの人は苦手だな」と思っている人がいるように、神さまから見れば、私自身もそうであったに違いない。
それなのに、主なる神様は、私を救うために御子イエス様の命を捨てて、私を愛して下さった。全く平等で公平な愛によって。
全ての人に神に愛される権利がある。
いや、もう既に愛されている。
そのことを忘れずに、今日出会う全ての人々に、これから出会うであろ全ての人々に神の祝福があることを覚えて歩んでいきたいものである。


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