
曽我ミヨシさん・ひとみさん拉致について(R3.11.23)
令和3年11月23日火曜日のショートメッセージ(Vol.598)。
11月20日(土)付の産経新聞に中村将社会部長が曽我さん母子の拉致について書いておられました。
あらためて現地調査のこととか思い出してお話ししました。
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【教科書が教えない 拉致問題】(4)女工作員が主導 残された謎 被害者リストになかった曽我さん 一緒に襲われた母いまだ消息不明 編集長・中村将 - 産経ニュース (sankei.com)
記事で曽我ひとみさんのお母さん「曽我ミヨシさん」が招待所にいたのではないかとの根拠が書かれています。
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久我良子とは…
その紙は、拉致被害者たちが暮らす平壌近郊の招待所の備え付けの鏡台の引き出しの底板に、小さく折りたたんで張り付けてあった。見つけたのは地村さん夫妻。1980年代初めのことだ。広げてみると、A4判ほどの紙にハングルで朝鮮人名が書かれ、横には漢字で「久我良子」とあり、「くがよしこ」と読み仮名もふられていた。
こんなことも書かれていた。《1978年に革命のために朝鮮にきた》《夫は交通事故で死亡》《娘は26歳で嫁いだ》。地村さん夫妻が招待所の世話係の女性に紙に書かれていた朝鮮人名についてたずねると、「あなたたちの前に住んでいた女性で、招待所を出て韓国人漁師と結婚した」と説明されたという。
ほかにも記述があった。「久我良子」が北朝鮮に来る前、漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたことや、新潟・佐渡島の住所。ボールペンで塗り消された跡もあった。
メモは自分の存在を誰かに知らせようとしていたようにも映る。メモを残したことが北朝鮮当局に知られたら、ただではすまない。「久我良子」という日本人名は偽名かもしれない。
北朝鮮に来た年や、娘がいること、佐渡に住んでいたことは、ミヨシさんの境遇と重なる。ミヨシさんが拉致された当時、土管などを製造する「北越ヒューム管」の工場で勤務していたことも「漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたこと」と一致する。
「ソガミヨシ」と「クガヨシコ」。偶然にしては、共通点が少なくないが、ミヨシさんか否かを、日本側から北朝鮮側にぶつける情報はそれ以上持ち合わせていない。北朝鮮側はミヨシさんが入境したことさえもいまだに認めていない。
拉致被害者の多くは若者でした。
しかし曽我さんのお母さんは40歳代だったでしょうか。
ですから寺越さん事件の様な無慈悲な扱いを受けたのではと想像していましたが、
産経新聞の記事を読んで、北朝鮮のどこかで生活している可能性があります。
希望を持ちたいです。
現在は曽我ミヨシさんはご高齢だと思いますが、何とかして助け出して欲しいです。
他の拉致被害者も高齢になられている方も多くなってきています。
一日も早く、全員を助け出して欲しいと願っています。