春になると、いろいろな花が咲いて美しい。しかし、花は誰か特定の人のために咲くのでもなく、自己を顕示するためでもない。また、自分一族の種の保存のためでもなかろう。
花はなぜ美しいのか。若くして胸を病んで亡くなった詩人・クリスチャンの八木重吉は答えてくれる――
花は
なぜ美しいか
ひとすじの気持ちで
咲いているからだ
と。「ひとすじ」とは、禅語にいう「只管(しかん)」、つまり「ひたすら」であろう。余念を交えないのが「只管」である。
武者小路実篤は、花を描いて
人知るもよし 人知らざるもよし 我は咲くなり
と、自讃された。
禅語には、
百花春至って誰が為にか開く
と、頌(うた)う。ただ、大いなるいのちにうながされて、無心にひとすじの気持ちで咲くから美しいのだと。
わたしたちは、花を自分に引きあてて、「自分はいかに生くべきか」と、人間性の真実を花に問いかけ、その答えをうなずきとる心の働きが、人間に埋(うず)みこめられている事実を体験すべきであろう。
花を見て「美しい」と感じるのは、人間の経験である。この経験をふまえて、人生の意味をうなずきとるのが体験だと思う。経験は、積み重ねるほど知識は高められる。体験は、掘り下げるほど智慧は深められていく。
このことは「花」を、「絵」や「俳句」に置き換えても全く変わらない。無心にひとすじの気持ちで描かれた絵や詠まれた俳句には、心うたれることが多い。
年金暮らしの貧しいわが家にも、絵と陶磁器の作品だけは必ず飾っている。心うたれる作品と出逢うと買いたくなるという、悪い病気があるからだ。貧乏ゆえ、有名画家の作品はもちろん買えない。だが、無名の人の中に、得てして「思いのこもった作品」があるものだ。若い作家を育てる、という意味においても、ぜひ作品を購入していただきたい。
一枚の絵、一つの茶碗を購入するという経験をふまえて、人生の喜びを感じとるのが体験なのだ。こうした経験や体験を積み重ねるうちに、知識は高められ、智慧が深められていくのである。
花の来処を問わんと欲すれど東君も又知らず
という禅語もある。「花はどこから来るか、東君(春を司る神)も知らない」というのだ。
「春」とは、大いなるいのちをいう。自分を包み込むと同時に、自分の中にも内在するいのちだから「大いなる」というのである。
かげろふやローランサンの少女たち 季 己
花はなぜ美しいのか。若くして胸を病んで亡くなった詩人・クリスチャンの八木重吉は答えてくれる――
花は
なぜ美しいか
ひとすじの気持ちで
咲いているからだ
と。「ひとすじ」とは、禅語にいう「只管(しかん)」、つまり「ひたすら」であろう。余念を交えないのが「只管」である。
武者小路実篤は、花を描いて
人知るもよし 人知らざるもよし 我は咲くなり
と、自讃された。
禅語には、
百花春至って誰が為にか開く
と、頌(うた)う。ただ、大いなるいのちにうながされて、無心にひとすじの気持ちで咲くから美しいのだと。
わたしたちは、花を自分に引きあてて、「自分はいかに生くべきか」と、人間性の真実を花に問いかけ、その答えをうなずきとる心の働きが、人間に埋(うず)みこめられている事実を体験すべきであろう。
花を見て「美しい」と感じるのは、人間の経験である。この経験をふまえて、人生の意味をうなずきとるのが体験だと思う。経験は、積み重ねるほど知識は高められる。体験は、掘り下げるほど智慧は深められていく。
このことは「花」を、「絵」や「俳句」に置き換えても全く変わらない。無心にひとすじの気持ちで描かれた絵や詠まれた俳句には、心うたれることが多い。
年金暮らしの貧しいわが家にも、絵と陶磁器の作品だけは必ず飾っている。心うたれる作品と出逢うと買いたくなるという、悪い病気があるからだ。貧乏ゆえ、有名画家の作品はもちろん買えない。だが、無名の人の中に、得てして「思いのこもった作品」があるものだ。若い作家を育てる、という意味においても、ぜひ作品を購入していただきたい。
一枚の絵、一つの茶碗を購入するという経験をふまえて、人生の喜びを感じとるのが体験なのだ。こうした経験や体験を積み重ねるうちに、知識は高められ、智慧が深められていくのである。
花の来処を問わんと欲すれど東君も又知らず
という禅語もある。「花はどこから来るか、東君(春を司る神)も知らない」というのだ。
「春」とは、大いなるいのちをいう。自分を包み込むと同時に、自分の中にも内在するいのちだから「大いなる」というのである。
かげろふやローランサンの少女たち 季 己