壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

我が衣に

2010年03月14日 22時08分48秒 | Weblog
          伏見西岸寺任口上人に逢うて
        我が衣(きぬ)に伏見の桃の雫せよ     芭 蕉

 任口上人(にんこうしょうにん)の高風徳化に浴したいという意だといわれているが、そうした意識的なものよりもう少し純粋に感じられる。むしろ、任口上人との対坐のよろこびが浸透しているのだととりたい。それが自然と挨拶となって生かされているのである。誦していると自ずとその感動の中にひきこまれ、なかなか豊潤な味わいのある作だと思う。

 「任口上人」は、浄土宗伏見西岸寺(さいがんじ)第三世宝誉。芭蕉の主家藤堂家の分家で、俳系は松江重頼門。貞享三年没。八十一歳。『六百番発句合』の判をしており、芭蕉とも俳交があった。
 「伏見の桃の雫せよ」は、伏見は桃の名所であり、三月ごろは盛りであるから、それを挨拶に取り入れたものである。あるいは、雨の後であったかもしれない。伏見に、伏して見る意を掛けているかとも考えられる。

 季語は「桃」で春。ただし、桃の花の意。

    「任口上人にお目にかかることができて、よろこびの涙がこぼれそうになる。伏して見る、
     折から盛りのこの伏見の桃の雫も、我が衣を潤してほしい」


      歌垣のつくばに来よと桃の花     季 己