壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

胸中の画

2009年11月21日 20時50分12秒 | Weblog
          竹画賛
        木枯や竹に隠れてしづまりぬ     芭 蕉

 画賛とは思えない実感のこもった句である。おそらく画もよかったのであろうが、それだけではないと思う。
 画に対して芭蕉は、自分の過去の体験を呼び起こしているところがあり、むしろ、芭蕉の胸中にたくわえられたものが、画によってその流出口を与えられたと見るべきものである。

 この句、『鳥の道』に所出されているが、上五に異同があり、「木枯(こがらし)の」、「木枯は」という本もある。
 やはり、「木枯“は”」や、「木枯“の”」ではダメだと思う。それだと、木枯だけが小さく説明されているに過ぎなくなる。「木枯や」と言ってはじめて、木枯が耳底に消えさって、竹林の葉のさやぎのみが残るという時間的な経過をはらんだ深さが出てくる。この「や」には、聴き澄ましている一瞬の長さが、実に的確につかまれている、と感嘆させられる。
 この句は美しい句であるが、決して美しすぎるということのない句である。この句の調べが、「木枯や」とたかまり、「しづまりぬ」とおさえこまれ、芭蕉の静かな息づきをしっかり生かしているからである。

 「竹画賛」は、竹の画に加えた画賛の意で、その絵は、「寒厳疎竹の画であろう」と幸田露伴は書いている。
 「木枯や」は、冬の竹の画から木枯を呼び起こし、胸中の木枯と画中の竹とで、一つの世界をつくりだしているのである。
 「竹に隠れてしづまりぬ」は、画の趣にそういう気分のかようところがあったのであろう。実際の木枯が止んだのは、画中の竹に隠れたものであろう、と解しては考えすぎだと思う。
 季語は「木枯」で冬。季感がよくとらえられている。

    「木枯がごうごうと吹き荒れていたが、竹林に吹き籠って、今はひっそり
     としずまってしまった」


      波郷忌の手に並べゐる飲み薬     季 己