壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

落葉

2009年11月16日 20時06分48秒 | Weblog
           元禄辛未十月明照寺李由子宿
          当寺、此の平田に地を移されてより、已に百
          歳に及ぶとかや。御堂奉加の辞に曰く、「竹
          樹密に、土石老いたり」と。誠に木立もの古
          りて、殊勝に覚え侍りければ、
        百歳の気色を庭の落葉かな     芭 蕉

 元禄辛未(しんび)十月、つまり元禄四年(1691)十月に、蕉門俳人の李由(りいう)が住職を務める明照寺(めんせうじ)に宿した際に詠まれたものである。
 明照寺の庭の古雅なさまをたたえ、もって李由への挨拶としたものである。寺の庭の趣そのものに即して発想しているところが目につく。また、この句における「を」は、散文には見られぬ重い働きを示しているところに注目したい。

 「明照寺」は、浄土真宗の光明遍照寺。土地では「メンショウジ」と呼びならわしている由。慶長四年(1599)平田の地に移ったという。
 「李由」は、河野通賢、当時の明照寺住職、律師。
 「奉加(ほうが)」は、仏堂や伽藍(がらん)造営のために財物を寄進することで、「奉加の辞」は、奉加を勧める辞である。
 「殊勝」は、ことにすぐれていること。
 「百歳」は、「モモトセ」と読み、「百年」とも表記する。
 「気色(けしき)」は、ありさま、ながめ、おもむきの意。「気色を」は、「気色を眼前に見せて」というほどの意。平田に移ってからの百年という歳月を、ありありと感じさせるところをいったものと思う。「気色であるのを、なおその上」という意味ではあるまい。
 季語は「落葉」で冬。落葉(おちば)そのものの味わいが、生かされている。

    「この寺の庭には、なんとまあ落葉が降りつもっていることだろう。木立・土石
     すべてがいよいよもの古り、いかにも百年の歳月の厚みを感じさせる有様であるよ」


      療養のはじめは銀杏落葉かな     季 己