尊がる涙や染めて散る紅葉 芭 蕉
『笈日記』に、「元禄五年神無月はじめつかたならん、月の沢と聞え侍る明照寺に覉旅(きりょ)の心を澄まして」と前書きを付して掲出。また、脇句「一夜静まるはり笠の霜 李由」を添え、この脇句に関連して芭蕉・李由の師弟関係をめぐる逸話を付記している。
この句は、昨日の句と同様に、李由への挨拶の心をこめて発想している。ただ、紅葉を、尊がる涙が染めたものととりなしたところには、はからいがあらわであって、この期の芭蕉の作としては駄作の部類に入るであろう。
「尊がる」は、原文に「たふとかる」とあるが、『笠の影』には「たふとがる」と濁点を付して表記されている。「尊かる」かもしれないが、ここでは『笠の影』に従っておく。
「尊がる涙」は、明照寺の参詣者が、仏恩の尊さを思ってこぼす涙をいう。
「涙や染めて」の「や」は疑問の意。「涙が(紅葉を)染めて……か」の意と思う。「(散る紅葉が)涙を染めて……か」ではなかろう。
芭蕉には、すでに「岩躑躅(つつじ)染むる泪(なみだ)やほととぎ朱(す)」や「麦の穂や泪に染めて啼く雲雀(ひばり)」の作がある。これは、いわゆる一つの型をなした発想なのである。
「散る紅葉」が季語で冬。『俳諧御傘』には「“紅葉かつ散る”は秋なり、“散りそむる”は冬なり」などとあり、多少問題のある季語である。「紅葉散る」を『花火草』以下の歳時記には、一般に十月とする。
ここでは純粋に紅葉の美を生かしたものではなく、涙の染めたものとする知的操作が加わって、句が弱くなっている。
「秋深く、紅葉がはらはらとこの寺の庭に散っているが、これは参詣の
人々が、仏恩の尊さのあまりこぼす涙が染めたものであろうか」
くちびると十指にしびれ冬りんご 季 己
『笈日記』に、「元禄五年神無月はじめつかたならん、月の沢と聞え侍る明照寺に覉旅(きりょ)の心を澄まして」と前書きを付して掲出。また、脇句「一夜静まるはり笠の霜 李由」を添え、この脇句に関連して芭蕉・李由の師弟関係をめぐる逸話を付記している。
この句は、昨日の句と同様に、李由への挨拶の心をこめて発想している。ただ、紅葉を、尊がる涙が染めたものととりなしたところには、はからいがあらわであって、この期の芭蕉の作としては駄作の部類に入るであろう。
「尊がる」は、原文に「たふとかる」とあるが、『笠の影』には「たふとがる」と濁点を付して表記されている。「尊かる」かもしれないが、ここでは『笠の影』に従っておく。
「尊がる涙」は、明照寺の参詣者が、仏恩の尊さを思ってこぼす涙をいう。
「涙や染めて」の「や」は疑問の意。「涙が(紅葉を)染めて……か」の意と思う。「(散る紅葉が)涙を染めて……か」ではなかろう。
芭蕉には、すでに「岩躑躅(つつじ)染むる泪(なみだ)やほととぎ朱(す)」や「麦の穂や泪に染めて啼く雲雀(ひばり)」の作がある。これは、いわゆる一つの型をなした発想なのである。
「散る紅葉」が季語で冬。『俳諧御傘』には「“紅葉かつ散る”は秋なり、“散りそむる”は冬なり」などとあり、多少問題のある季語である。「紅葉散る」を『花火草』以下の歳時記には、一般に十月とする。
ここでは純粋に紅葉の美を生かしたものではなく、涙の染めたものとする知的操作が加わって、句が弱くなっている。
「秋深く、紅葉がはらはらとこの寺の庭に散っているが、これは参詣の
人々が、仏恩の尊さのあまりこぼす涙が染めたものであろうか」
くちびると十指にしびれ冬りんご 季 己