会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

會津八一 1222

2016-10-13 20:02:23 | Weblog
会津八一に関するブログ 136

観心寺如意輪観音 2009・4・15(水)

 大阪の河内長野にある観心寺の本尊が年に一度開帳される。(今年は4月17,18日) 毎年行き損ねていたが、今年は念願かなって友人たちと一緒に訪れることになった。
 この平安仏について歌人・吉野秀雄(1902年 - 1967年)が自著・鹿鳴集歌解で下記のように表現する。「妖しき生きもの・・・」である如意輪観音を堪能したい。
 弘仁期密教美術の特色とする雄勁な手法と豊麗な様式を遺憾なく発揮したもの。奈良時代のからッとした理想美の世界を出でてここに至ると、何よりも森厳・霊活な、妖しき生きものといふ感に打たれる。像高三尺六寸、木造五彩の設色、思惟の相を呈す。広額豊頬、眼に叡智を秘め、唇辺に慈悲を宿し、右膝を立てて半跏を組み、左右に三臂づつを生じ、右の第一手は屈して頬を受け、第二手は宝珠を持ち、第三手は垂れて数珠を下ぐ。左の第一手は地に安んじ、第二手は蓮華を捧げ、第三手は指頭に金輪を支ふ。宝髻の外に宝珠と霊形の透彫金箔置の宝冠を、臂と腕には金属製の釧(くしろ)をつく。光背・台座等の荘厳具も、全身の彩色もよく保存されてゐる。

會津八一 1221

2016-10-12 20:40:25 | Weblog
会津八一に関するブログ 135

會津八一傳  2009・3・28(土)

 会津八一の世界に入ったのは、恩師・故植田重雄の「秋艸道人 会津八一の生涯」(昭和63年)が契機だ。本は難しく、その後再読して八一の世界に魅了された。最初に出版された八一の伝記は、故吉池進の「會津八一傳」(昭和38年)、去年入手して細かい活字の800頁余をやっと読み終えた。膨大な資料とともに八一の生涯が詳細に語られていて貴重な本だが、惜しむらくは誤字が多く、本としての構成にも不備があり、既読の本の中では一番読みづらかった。吉池進は信州戸倉上山田温泉の千曲館二代目、一度はここを訪れたいと思っている。

會津八一 1220

2016-10-11 20:22:03 | Weblog

会津八一に関するブログ 134

まはに  2009・3・21(土)

 「ま」は接頭語、「はに」は黄赤色の粘土、赤土、埴(はに)。
              (會津八一 鹿鳴集評釈 原田清 著 より)
 埴とは粘土のことだが、「まはに」とひらがなで書いてあると難しい。その他は平易な八一の歌を以下に!

 奈良を去る時大泉生へ2       解説

   ならさか を じやうるりでら に こえむ ひ は
         みち の まはに に あし あやまち そ

     (奈良坂を浄瑠璃寺に越えむ日は道のまはにに足あやまちそ)

會津八一 1219

2016-10-10 20:36:55 | Weblog
会津八一に関するブログ 133

お水取り 2009・3・11(水)

 東大寺二月堂のお水取り(お松明)は、とりわけ大きな松明が燃やされる12日が圧巻である。去年、念願の見学を果たした。
 会津八一はなかなか見学の機会がなく、当時親交があった上司海雲(東大寺観音院住職)に手紙で世話を頼んでいる。教え子を連れた八一の奈良での活動を想像する。

 奈良を去る時大泉生へ      解説

   のこり なく てら ゆき めぐれ かぜ ふきて
          ふるき みやこ は さむく あり とも

      (残りなく寺ゆき巡れ風吹きて古き都は寒くありとも)

會津八一 1218

2016-10-09 20:20:42 | Weblog
会津八一に関するブログ 132

シネラリア(cineraria) 2009・3・5(木)     

 庭前の梅花も散り果てて、梧桐、柘榴の芽も未だ覚束なく、
 百日紅の裸なる幹も目立ちて淋しければとて、アネモネ、
 ネメシア、シネラリア、金盞花など鉢植を置きならべて朝夕に愛玩す

   下り立ちて 紅茶冷めたり シネラリア    
                  八一(大正2年作)

  シネラリア
    和名:フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜) 、
    花期:春、花屋さんではサイネリアという。 

会津八一 1217

2016-10-08 23:11:59 | Weblog
会津八一に関するブログ 131

香薬師と八一 2009・2・1(日)

 『私は新薬師寺へ行って香薬師を拝みました。その時「ちかづきてあふぎみれども」という歌を詠んだ。ところが奈良を去って、幾何(いくばく)も無く新聞を見ますと、香薬師さんが盗まれて何処かへ行ってしまった。・・・腕輪のようなものをはめておられたけれども、それが純金でないかということで盗んだ。ところがそれは純金でないということで何処かへ捨ててしまった。それが数日して畑の中から出てきた。・・・何時も私の行った後で盗まれた。それが三度もあった。私も連累ではないかと怪しまれやしないか。』 会津
 『あの仏像を見ていると盗みたくなりますね。』 亀井
 『そうなんです。盗難にあった後、・・・吉井勇が「香薬師もとの御堂に還れよと秋艸道人歌よみたまえ」などと書いている。私は失くなられる度に因縁が深い。』 会津
 今年はこの香薬師を実物大で彫ってみたいと思っている。

會津八一 1216

2016-10-07 21:24:06 | Weblog
会津八一に関するブログ 130

法隆寺と八一2 2009・1・30(金)

 『前の日に私は不真面目にも酒を飲んで(法隆寺を)見て歩いた。その時、(宿屋の)七十何歳かのお婆さんが、私は貴方の様に酒を呑んで見て歩く人は初めてだと(たしなめて)いう。そして今夜は私と一緒に月見をしてくれというんです。十三夜であった。涼み台を夢殿の近くへ出して・・・。この時、カタンカタンという音がするんですよ。あの音は何だというと、「あれは筬(おさ)の音です。」という。この辺の娘は機(はた)を織りますという。』 会津
 『「南京新唱」にのっている機の歌ですか。』 亀井
 『「いかるがのさとのをとめは」というのはその時出来たのです。』 会津

  法隆寺村にやどりて      解説

    いかるが の さと の をとめ は よもすがら 
           きぬはた おれり あき ちかみ かも

     (いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)

 筬(おさ)の音は機織りで緯糸を筬で引き寄せて、経糸、緯糸をしっかりと組み合わせる時に出る。

會津八一 1215

2016-10-06 20:11:48 | Weblog
会津八一に関するブログ 129

法隆寺と八一 2009・1・28(水)

 『・・・(明治41年、初めて)法隆寺に行ったのは要するに、聖徳太子とそれに関連した史実を見たいという漠然とした気持ちで行ったのです。・・・法隆寺へ私が参ったら、今日はもう遅いから、明日来てくれという。それで宿をとったのです。・・・(翌日)聖徳太子というものを濃厚に頭に描きながら見て歩いた。綱封蔵の中なんかにも行きました。その前であの「みとらしのあづさのまゆみ」という歌が出来たのです。山代大兄王の戦のことなど思い浮べていました。日が暮れてから、私は夢殿へ参りました。』 (会津、亀井対談より)
 敬愛する聖徳太子のこの歌を作ったのは八一28歳の時だった。

  御遠忌近き頃法隆寺村にて(第4首)     解説 

     みとらし の あづさ の まゆみ つる はけて 
              ひきて かへらぬ いにしへ あはれ 

      (みとらしの梓の真弓弦はけて引きて帰らぬいにしへあはれ)

會津八一 1214

2016-10-05 20:56:59 | Weblog
会津八一に関するブログ 128

飛鳥園と八一 2009・1・27(火)

 有名な飛鳥園の店主、故小川晴暘(せいよう)の仏像写真は、会津八一に勧められて大正時代に始まった。昭和28年の八一と亀井勝一郎の対談から以下に抜粋する。
 「・・・奈良の美術というものを新しい写真で写すということは、非常に大切なことで、世界的なことだと思う。君一つやれと言って、私(八一)が勧めたのです。それが当時の小川君(晴暘)ですよ。・・・ところが寺々では喜ばれない。・・・仏像というものは学者の参考品ではなくて、宗教の礼拝の対象ですから・・・許可できないということであった
 2人は仏像を芸術の対象として粘り強く撮影し始める。試みに撮った東大寺三月堂の2枚ばかりの写真が堂内で売られ、当時の寺の欠損を埋めたために、写真撮影が大きく前進したという。奈良に出かけたらぜひ飛鳥園を訪れてほしい。八一の歌碑もある。

會津八一 1213

2016-10-04 23:47:28 | Weblog
会津八一に関するブログ 127

月のはじめに 2008・12・1(月)

 落ち葉が目立つ晩秋から初冬、広大な野や林があった昔の武蔵野に立ったつもりで八一の歌を味わってください。

  奈良より東京なる某生に       解説

    あかき ひ の かたむく のら の いやはて に
       なら の みてら の かべ の ゑ を おもへ 

     (赤き日の傾く野らのいや果てに奈良のみ寺の壁の絵を思へ)


會津八一 1212

2016-10-03 21:03:31 | Weblog
会津八一に関するブログ 126

香薬師像 2008・11・8(土)

 新薬師寺の高さ75cmの香薬師像(金銅仏)は昭和18年、3度目の盗難に会い、その後行方不明になっている。そのレプリカが本堂で特別公開されているので出かけた。撮影もスケッチも禁止になっている像を時間をかけてじっくり観察し、素晴らしい微笑みを持つ楚々とした仏を目に焼き付けてきた。

 香薬師を拝して(第2首)        解説

    ちかづきて あふぎ みれ ども みほとけ の 
              みそなはす とも あらぬ さびしさ
 
      (近づきて仰ぎ見れどもみ仏のみそなはすともあらぬ淋しさ)


會津八一 1211

2016-10-02 21:19:44 | Weblog
会津八一に関するブログ 125

季節の味 2008・11・1(土)
 食卓にはいろいろの柿が並ぶ。買ってきたもの、もらったもの、味が違うそれぞれを季節感を持って食べる。四季折々の味覚を楽しめる風土に感謝し、次に出回る食べ物に期待を膨らます。ところが困ったことが二つある。技術の進化で季節を無視して食品が出回ること、もう一つは食の安全が揺らいでいることだ。
 月が変わって11月になった。食べ物も風物も素晴らしい秋が深まっていく。

  薬師寺東塔(第2首)        解説

   すゐえん の あまつ をとめ が ころもで の 
        ひま にも すめる あき の そら かな

     (水煙の天つ乙女が衣手のひまにも澄める秋の空かな)   

會津八一 1210

2016-10-01 20:24:57 | Weblog
会津八一に関するブログ 124

南京新唱(なんきょうしんしょう)・自序より 2008・10・29(水)

 会津八一第一歌集(大正13年)は、初めて奈良を訪れた明治末期の荒廃する古都・奈良での歌を主にしている。自序の一部を紹介する。

 「われ奈良の風光と美術とを酷愛して、其間(そのかん)に徘徊(はいかい)することすでにいく度ぞ。遂(つい)に或(あるい)は骨をここに埋めんとさへおもへり。ここにして詠じたる歌は、吾ながらに心ゆくばかりなり。われ今これを誦(じゆ)すれば、青山たちまち遠く繞(めぐ)り、緑樹甍(いらか)に迫りて、恍惚(こうこつ)として、身はすでに舊都の中に在(あ)るが如(ごと)し。しかもまた、伽藍寂寞(がらんじやくまく)、朱柱たまたま傾き、堊壁(あへき)ときに破れ、寒鼠(かんそ)は梁上に鳴き、香煙は床上に絶ゆるの状を想起して、愴然(そうぜん)これを久しうす。おもふに、かくの如き佛國の荒廢は、諸經もいまだ説かざりしところ、この荒廢あるによりて、わが神魂の遠く此間に奪ひ去らるるか」           (全文へ