SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

尖端の心理学

2010年06月29日 | Weblog


>然り現代社会は、総てのものを賣ることに熱中している、そして賣る為の刺激で蒸されている。この刺激は加速度的に強烈化されることなしでは、即ち先端化されることなしでは、刺激としての効果を失ってくる。従って強烈なる刺激に充てる社会は、更にいっそう強烈なる刺激を求め、遂には猟奇的となり、変態的となり、グロとなり、テロとなり、犯罪的となり、殺人的となり、悪魔的となり、極度に現代社会をウルトラ化して行くのである(赤神良醸著「尖端の心理学」(昭和6年)より)

 第一回スペキュラ藝大セッションの場で、浅田彰と岡崎乾二郎という批評の最終解脱者たちの説教を享けつつ、そこで配られた赤神良醸の「尖端の心理学」というテキストを眺めていると、あらためてニーチェ、フロイト、マルクスを三位一体で修めていない批評家など論外だな、と思った。ましてやこの三位一体への理解無きまま格好つけてデリダなりドゥルーズなりをかじってみたところで、もう確実に猫に小判というか豚に真珠である。昨年のリンチ論も、この三位一体への十分な理解があれば、あれほど苦労することもなかったろう。上記テキストの、猟奇、変態、グロ、テロ、犯罪、殺人、悪魔などは、すべてディヴィッド・リンチの映画を彩る要素であるが、それらは現代人の「尖端」的刺激(第一回目に限られる欲求)から顕れてくる現象である。

>ウイベル・フェヒネルの法則は、我々に「感覚を算術級数的に増加するには、刺激を幾何級数的に増加しなければならぬ」ということを教えている。そして私は、これを加速度説というのである。一方、人間の心はより強烈なる刺激を加速度的に追及して行くが、他方、その刺激にも、その刺激に耐え得る人間の神経系にも、一定の極限(リミット)があるから、最も容易に最も強烈なる刺激を与えうるものは、新しい、即ち近代人にとって未だ経験されなかった種類の、しかも第一回目の刺激でそれがあらねばならない。(同上)

 映像はディヴィッド・リンチが『インランド・エンパイア』以降に制作した『ボート』という短編の作品だが、最後に白い穴が現れていることから、急いで「すくなくとも二つのエプロンがなければならない。満期=支払期日はそのようなものである」というジャック・デリダの格好いいフレーズ(『尖筆とエクリチュール』215ページ)を思いつきで引いて勝手に満足するようなことは、もういいかげん慎みたい(そうしてこれまでどれだけ間違ってきたことか)。最終解脱者たちによれば、尖端=先端とは、中枢のない末端=端末のことでもあるという。このあたり慎重に理解を進めたい。(続く)

黒瀬君の職場の問題

2010年06月27日 | Weblog
 桂英史が黒瀬陽平の「芸大不合格者展」を批判するのは不当であろうが、岡崎乾二郎であれば話は違ってくる。そのことは他でもなく黒瀬自身がよく分かっているはずだ。岡崎に「問題外」とされることの意味を、よく分かっているはずなのである。批評の達観者たる岡崎に「人間関係」は通用しない。ユーストリームでいくら「泣き」を入れても、そんなものに感情移入するはずがないのだ。そして岡崎に対しては東浩紀も村上隆も手が出せないゆえ、いま黒瀬は孤立無援である。ショックのあまり、この色白の男の娘がついに生理不順にならなければよいのだが......。

「黒瀬君の職場の問題」について語る岡崎乾二郎

擬似ドキュメンタリーについて その9

2010年06月23日 | Weblog
>「アーカイブ酔い」はデリダのフロイト論『Mal d'Archive』のタイトルの仮の訳である。もちろん「アーカイブの悪」という訳もありうるが、内容から判断して、船酔い(Mal de mer)、高山病(Mal des hauteurs)の連想からアーカイブ「酔い」と訳している。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻15ページ)

 おぼつかない手つきで、そして何か決定的に理解を間違っているのではないかという不安をよそに、最近ジークムントの著作をかじっている理由はここにある。このことはすでにリンチの『インランド・エンパイア』分析の最初期に気付いていたことだったが、いまひとつ確信が持てず、公表を控えていたのである。だがいまや確信どころか確定している。『インランド・エンパイア』のあの揺れるカメラワークが示しているものこそがアーカイブ酔い(Mal d'Archive)なのであり、その船酔い(Mal de mer)なのである。そしてその酔いは、疑似ドキュメンタリー映画の本質でもあるだろう。

>一般的には、エイブラムズのギーク的な感性は、もっぱらグロテスクなクリーチャー(怪物)を創出することにあると思われている。しかし、『クローバーフィールド』の演出は、どれだけ真に迫った映像でも、それはつねに別の何気ない映像と隣り合わせていることを示している。もし録画スイッチを押さなければ、その「貴重」な映像は何一つ残らなかったのだから。ある映像の周りには他にも無数の映像が大量にひしめいていて、そのあいだに本質的な優劣をつけることはできない。彼のギーク的な感性は、たんに奇抜なイメージを表出するだけでなく、映像の堆積が生み出すリズムをキャッチするのに向いていた。そこまで含めて『クローバーフィールド』は、ギークによる、動画文化を背景にした擬似ドキュメンタリーとして捉えられるだろう。〔...〕オタクないしギークらの台頭は、心的な体験処理以上に、機械的な情報処理の地位が上昇していることをよく示している。〔...〕心的なものよりも機械的なものが優越する理由ははっきりしている。なぜなら、心的な差異(内観)を観察することは難しいが、環境の差異は観察と共有が可能だからである。そして、その機械的環境において「リズム」は看過できない重要性を帯びている。(福島亮大著『神話が考える』110ページ)

楠見清(笑)再び

2010年06月21日 | Weblog
 今週末の藝大セッションに向けて批評的集中力を高めていたところ、トンデモないニュースが入ってきた。あの楠見清が事件を起こし、2ちゃんねるなどで祭られているという。以前書いた「楠見清(笑)」という記事がそこで容疑の参考資料として取り上げられており、それが急なアクセス増加の原因となっていたのだ。あの男がいずれ自滅するであろうことは予想していたが、しかしまさかここまで落ちぶれるとは。同じアート系の人間として恥ずかしいというより、悔しいくらいだ。もうアート界から追放決定だな。楠見はこれで終了。

 ここで気分を変えて浅田彰先生の、心が洗われるようなお言葉を頂戴してから寝ることにしよう。ボーイズ・ビー・アンビシャスの時代から、ビー・アンビギュラスの時代へ。「ドブス写真集」の楠見には何の関係もない言葉である。


ほんとうの批評の話をしよう

2010年06月20日 | Weblog
>針生先生は、戦後の出発において、抵抗の拠点として、主体性などはまったく意味がないと自覚した、と言われました。むしろ抵抗とは物質、つまり主体によってはコントロールできない身体と、そこに付随する感性によってこそ可能なのだと。だから文学よりも美術批評に力を入れるようになったと。抵抗は主体でも意識でもなく、主体すらも逆らえない物質、身体こそが行う。すなわち物質に準ずる。それが針生先生の思想であり、日常の実践そのものだった。(岡崎乾二郎の弔辞より)

  美術批評の殿堂入りたる岡崎乾二郎をしてもなお「申し訳ありません」と言わしめるもの、それこそが「批評」の真実である。真の批評的感性は、物質に準ずる身体の次元から発揮される。それゆえ針生一郎は、文学よりも美術批評を重視したという。私たちは、6月26日から藝大で始まる連続公開ディスカッションに向けて、もっと気合を入れるべきだろう。ほんとうの批評の話をするために。

>とくに外国語に関心をもたなくなったのは大問題です。外国語だと、なかなか物語を読み取れない、かわりにディティールにこだわらざるをえず、そこに露呈した無意識の構造を読み解くことになったりもする。真の批評というのは物語ではなく、そういうところへの着目から発生するんだと思うんだけれど。(浅田彰談『朝日ジャーナル』09年4・30緊急増刊号25ページより)

もうひとりのモーセ

2010年06月20日 | Weblog


>モーセの特徴に関して書き添えられている別の事柄もわれわれの関心を特別に惹く力を持っている。モーセは「口下手」だったとの一件である。つまりモーセは上手に話すことができず言い間違いをしやすかったわけで、それだからこそ、いわゆるファラオとの談判に際して彼の兄弟とされるアロンの助けを必要とした。これもまた真実であったかもしれないし、この偉大なる男の相貌に生気を与えるためには好都合な話かもしれない。しかし、これはまた、別のもっと重要な意味を持っている。この記録は、モーセがユダヤ人とは言語を異にする人物であって、彼に従ったセム計の新エジプト人とは、少なくともはじめのころは、通訳なしでは交流しえなかった事実を軽く歪曲して物語っているのかもしれない。それゆえこれはわれわれの主張する命題の正しさを裏づける。モーセはひとりのエジプト人であった、ということを。(ジークムント・フロイト著『モーセと一神教』59ページ)

 何が言いたいのかって? そのうち分かるさ。このテキストは読み易いものだけれども、しかしあのフロイトが書いているからね。普通に読んでいてもダメだろうね。おそらくフロイトは「もうひとりのモーセ」について、何かトンデモないものを予感していたと思うよ。それが何であるのか特定することはなかったのだけれども。

ちょwww

2010年06月19日 | Weblog
このブログの6月18日のアクセス数なんだが、この瞬間風速の強さは何なの?何かの事件に巻き込まれたのか?人大杉なんだが。急に51位と言われても......。

閲覧数:3,215PV 訪問者数:2,699IP
順位: 51位 / 1,426,222ブログ中

現実はなぜひとつなのだろう

2010年06月19日 | Weblog
「本当はこの現実しかない、言い換えればメタロジックなんてものはないんだから」(佐々木敦著『ニッポンの思想』244ページより浅田彰の発言を抜粋)

 というわけで6月26日に藝大に浅田彰がやってくるのだけれども、誰か藝大生でこの達観の人に向かって、「現実はひとつだなんて、僕はそうは思いません。僕は見ました、別の世界を。幻だったのかもしれませんが......」とか、そのくらいのことを言ってのける奴はいないのかね。「しかし僕は黒瀬陽平さんの『カオスラウンジ』を体験して、『モダニズムのハードコア』という浅田さんたちの理念こそが幻であったのだという結論に至りました」とか言って、いきなりカオスラウンジの宣言文を読み上げて、「MAD的な生成力というのは、浅田さん的な終わりの美学こそを終わらせるものなんです」とか言って、しまいには「ここまで来てもなお浅田さんは、荒唐無稽なファンタジーやMAD的な生成力に一度も振り切れることなく、自然主義的リアリズムとの「ズレ」程度の操作で、現実の過剰さに手が届くと思い込んでいるのではないでしょうか」と挑発する。「僕たちはいまや普通に複数の現実を生きているんです。浅田さんはそのことを分かっていない」と、そのくらいのことを言ってしまえる奴はいないのか。

二つの神の名前

2010年06月18日 | Weblog
>われわれが得た成果をごく手短に公式的にまとめておく。ユダヤの歴史を貫く周知の二重性――二つの民族集団、これらは国家の形成のために合体した。二つの王国、この状況の中でこの国家は崩壊した。聖書原典に見られる二つの神の名前。――以上のような二重性にわれわれは新たに二つの二重性を加えておく。二つの宗教創設、最初の宗教は別の宗教によって抑圧されながらも、のちになって別の宗教の背後に立ち現れ勝利をおさめるに至った。ふたりの宗教創始者、両者ともにモーセという同じ名前で呼ばれているが、われわれは二人の人物を互いに区別すべきである。そしてこれらの二重性のすべては、第一に挙げた二つの民族集団という二重性に淵源するのであり、民族内の一群の人びとが心的外傷と言ってもよい体験を得てしまい、残りの人びとはこれと縁がなかったという事実からの必然的な帰結なのである。以上の事柄に加えて、詳論すべきこと、主張すべきことはなお無数に存在しているであろう。(ジークムント・フロイト著『モーセと一神教』93ページ)

 なんだって? 二つの神の名前だって? これってもしかして......。

>それゆえディックがこの小説で、不気味なものの両義性を利用し、キリストをもうひとり用意していたこと、つまりソフィアにファットを対置していたことの意味は、ディックの小説分析を超えた射程を備えている。(東浩紀著『情報環境論集S』264ページ「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」より)

>そして筆者には、晩年のディックが、視覚化された不気味なもの=ソフィアに対して、語りの攪乱という別の不気味なもの=ファットをあえて対置させていた背景には、同じような視覚的隠喩への不満が(無意識に)あったように思われてならない。(同376ページ)

 なるほど四時じゃねーのとか自動投稿している場合じゃねえぞ。

疑似ドキュメンタリーについて その8

2010年06月17日 | Weblog


 擬似ドキュメンタリー映画の内容について、「社会に見捨てられた世代」というロスジェネ的なリアリズムの視点から、それをフロイトが『モーセと一神教』の第一章で取り上げている「英雄神話における遺棄伝説」のテーマに繋げて考察してみようかと思っている。多くの疑似ドキュメンタリー映画に共通しているのは、そこに救いがないことである。英雄神話では遺棄された子供が別の家族に拾われて成長するだろうが、疑似ドキュメンタリー映画では、それが行方不明のままで終わってしまうのである。たとえば河に遺棄された浦島太郎が、誰にも発見されずにそのまま海にまで流されてサメに食われて終了みたいな。赤木智弘的にも、オレは一生フリーターでお終いだ、みたいな。

【訂正】浦島太郎ではなく桃太郎だろw

疑似ドキュメンタリーについて その7

2010年06月16日 | Weblog


>モーセMosesという男は、ユダヤ民族の解放者にして立法者であり、宗教創始者でもあったわけだが、あまりにも遠い過去の存在であるがゆえ、彼が歴史的に実在した人物であるのか、それとも、伝説の産物であるのか、という先決問題は避けて通れない。もし彼が現実に生きていたとするなら、紀元前13世紀、あるいはまた、紀元前14世紀のことであった。彼に関して、我々は、聖書とユダヤ人によって記録された伝承からのもの以外に、いかなる認識も持ちあわせていない。このようなわけであるから、最終的に確実な断案など下しえないわけであるが、しかしながら、圧倒的多数の歴史家は、モーセは実在したと、そして、彼の実在と不可分のエジプト脱出も実際に起こったのだと言明している。(ジークムント・フロイト著『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫)14ページ)

 何が言いたいのかって? そのうち分かるよ。こいつはちょっとしたサスペンスだ。なるほど四時じゃねーのなんて言ってる場合じゃない。

疑似ドキュメンタリーについて その6

2010年06月13日 | Weblog


>周知のように、この最晩年の著作『モーセと一神教』でフロイトはユダヤ教の誕生を考察するにあたり、モーセがエジプト人であったという仮説を出発点にした。もとより証明不可能の命題であることは承知のうえであるが、それでもフロイトはモーセという名がエジプト語であった可能性と、モーセが河に遺棄され拾い上げられたという神話の分析に拠りながら、論をすすめる。「......確実なことが言えないとするならば、そもそも私はなぜこのような研究を公表したのだろうか?......なぜかというと、ここで述べられた二つの論拠が注目され、モーセがひとりの高貴なエジプト人であったという想定を真実だと見なす気持ちが生じるならば、その場合、大変に興味深くかつ広大なパースペクティヴが現れるからである。ある程度確かな、それほど的外れでない仮説の助けを借りるならば、モーセを尋常ならざる歩みへと導いた動機が理解されるであろうし、その動機との緊密な関係のなかで、モーセがユダヤの民に授けた掟と宗教に関する数多くの特質および特異性を根拠づけることが可能となろう」(港千尋著『影絵の戦い―9・11以降のイメージ空間』122ページ「アイデンティティの限界」より抜粋) 

さらにアンドレ・ルロワ=グーランの話。

>フランスの先史学者アンドレ・ルロワ=グーランは、旧石器時代の石像や壁画について、それがいつ、どのような材料で、どのようにしてつくられたかを解明することは可能だが、それをつくった人間の手が、いったん洞窟や材料の石を離れた瞬間、それがなぜ、何のためにつくられたのかに対する答えは、闇のなかに取り残されると説いた。ひとかけらの石は、人間の手を離れたときから、それを再発見し観察する人間の想像力(それが文学的なものであれ科学的なものであれ)のなかでしか生き続けることはできないからである。だからといってそれを問うことが無意味であるというわけではない。観察しそれを言語化する人間の想像力が重要となる。(同上127ページ)

21世紀芸術論

2010年06月13日 | Weblog
『食人族』のDVDを観ているあいだに、千葉&池田組の「芸術革命プログラム」がヴァージョンアップしていた。これまでは各地で散発的に行われていたこのプログラムも、これからは藝大での腰を据えた集中展開となるわけだ。ゲストは豪華で、いきなり浅田彰と岡崎乾二郎である。このふたりの批評的達観者を招く初回をまさか落とすわけにはいかないが、なんといっても注目は、あの噂の黒瀬陽平が前島賢を連れてやって来る7月17日である。これはフランス大使館のときの議論の続きとなるだろうが、GEISAI大学で東浩紀に顔が白くなるほどヤキぶっこまれた黒瀬の批評家魂の真偽が、ここであらためて問われることになるだろう。桂英史もいるんだ。「ちょwww」とか「......無言(凹」とか「なるほど4時じゃねーの」とかいった冗談は無しだぜ。

セカイ系と例外状態

2010年06月13日 | Weblog


「軽率にも、過去や未来を犠牲にしてリアルタイムという現在を優先する社会は、事故も優先する」(ポール・ヴィリリオ)

>時間が線的に流れるH・G・ウェルズの世界では、タイムマシンを使って事故を未然に防ぐというアイデアが可能になるが、ポール・ヴィリリオの描く世界では、タイムマシンによって事故が回避されるというアイデアそのものが認められない。もしタイムマシンが製造されれば、その技術と機械によって、新たな事故が引き起こされるからである。(港千尋著『影絵の戦い―9・11以降のイメージ空間』88ページ「アクシデントの思想」より抜粋)