SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

古谷利裕のどこが間違っているか? 2

2006年05月31日 | Weblog
>彼(デリダ)はまず、「私は考える」がひとつの「表現 expression,Ausdruck」であることに注目する。表現は必ずある支持材、つまり音や文字などに刻まれねばならない。しかし音や文字といった物質は「私」に対して外在的(ex-,aus-)であるはずだから、表現「私は考える」それ自体は定義上、発話者である「私」の生死とは無関係に存在しうる。つまり表現「私は考える」は必ずある物質性をもつのであり、そのことで「私は考える」はつねに、それを瞬時に回収し「私は存在する」へと連結するはずの「自分が話すのを聞く」装置から逸脱してしまう。デリダはこの物質性を「エクリチュール」と名付けた。(東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社)p156~p157を参照)

 この文章の前後には「声の隠喩」という言葉が何度も繰り返されている。さすがにこれだけ「前提」の確認を求められれば、まさか「声」という隠喩を実体化し、それが刻まれる「支持材」を「空気」のことだと思い込んでしまうことなどあり得ないはずだ。そんなことはたとえ工学部の学生であろうと絶対にあり得ないはずなのだ。しかし古谷利裕は普通に平気で「声=空気」と理解してしまっている。おそらくは樫村晴香の「口腔運動」も同じように理解しているのだろう。ふだんから人の文章の引用ばかりして自分の頭で物事を基礎的に考えていないから、そういう馬鹿げた錯誤に陥るのだ。愛犬のチャーリィが笑い疲れてぐったりしている。誰だって疲れる。

古谷利裕のどこが間違っているか?

2006年05月29日 | Weblog
>経験的自我(発話する私)と超越論的自我(それを聴く私)との同一性を保障する「声-意識(フォネー) 」。例えばデリダは有名な「声と現象」で、このようなデカルト的な図式を精密にしたものとしてのフッサールを批判している。「私は存在する」という発話は、ひとつの表現であり、それは物質的基盤=支持体(この場合、声=空気)を必要とする。そして物質は私の外側に、私とは無関係に存在している。つまり「声」である「私は存在する」は、私から切り離されてある。だからその私の発話は、私の耳に届かない可能性もあるし、テープなどに録音されれば、私の死後(存在しない時)にも、私の声、である「私は存在する」が響くこともある。つまり、「私は存在する」という発話は、必ずしも私の存在を保障するものではない。と。フランスの現代思想を特徴づけるエクリチュールという概念は、このような思考を基盤としている。(偽日記 99/2/18(土)より抜粋)

 愛犬のチャーリィ(柴犬オス5才)が目に涙を浮かべて笑い転げている。真面目にやろう、チャーリィ。だがこんな「思考」を前にして、いったい誰が真面目でいられるだろうか? ここで古谷利裕は、エクリチュールをなんと「空気」のことだと考えている。はたしてデリダの『声と現象』(ちくま学芸文庫)にそんなことが書かれているのだろうか? もしそれが本当ならデリダは哲学者ではなく、実は物理学者だったということになる。いや、それどころか「空気の無い宇宙では音は伝わらない」ということを生徒に教える小学校の理科の先生となんら変わらないだろう。フランスの現代思想を特徴づけるエクリチュールという概念が、本当に「このような思考」を基盤としているのであれば、もはやそんな「幼稚な思考」にこれ以上付き合う必要はない。だが「このような思考」とは、もちろんデリダの思考ではなく、あくまでも古谷利裕の思考である。もっと言えば世界の中でただひとり、古谷利裕だけの思考の基盤にすぎないのである。

真面目にふざける2

2006年05月26日 | Weblog
>面白かったのは、山下裕二がアイロニーの画家、会田誠に対して軽い話で茶化そうとしているのに対して、むしろ会田誠の方が「最近、北澤憲昭さんの本を読んで、日本画を考え直してます」みたいに、真面目にふざけるんじゃなくて、真面目に真面目な事を言ってて、感心した。(童話/日記2006-05-12

 真面目にやろう。だが実際、この会田誠の発言は、はたして真面目なのか不真面目なのかよく解らない。アイロニカルな人の事がよく分からないという池田孔介氏にしてみれば、彼ら(昭和40年会)の態度もようやく変わってきたのかな、と「感心」してしまうのだろうが、それはいくらなんでも「クソ真面目」に過ぎる受け止め方だろう。真面目に重い会田誠と、不真面目に軽い山下裕二と、ここでは立場の逆転が見られるが、池田氏はそれを「心構え」の問題として愚かにも読んでしまっている。脱構築の殉教者ジャック・デリダの教えに「真面目にやろう」というのがあるが、しかし同時に「私はここで真面目なのか?」と悩んでもいる。この困惑にこそ何かの真理があるのだ。

備忘録3

2006年05月24日 | Weblog
 ところで、誰かが嘘をついていること、すなわち誰かがあることを語りながら、善意のもとで自分が語っていることを信じて<いない>ことを証明するのは、絶対に不可能です。そのことを理論的に正しい証拠をもって証明することは決してできないのです。嘘をつく人は、それが真実でなかったとしても、語った瞬間にはそれが真実であることを善意のもとで信じていたと、いつでも主張できるのですし、それを否定することは誰にもできないのです。ほかの形では確実に嘘であることがわかることでも、語られる瞬間には嘘は常に<ありえない>ものでありつづけるのです。
 私が他者に語りかけるとき、いつも私は自分が語ることを信じてほしいと、信頼してほしいと求めねばならないのです。両義性をなくすことができず、偽誓であることがつねに可能であり、検証できないまさにその瞬間に、私の言葉に信を寄せてくれるように頼まざるをえないのです。これを頼まざるをえないということは、人間が孤独で単独な存在であることを示すものです。相手が「私としては」と語るときに、その内側に入り込むことはできないことを示すものです。私が他なる自我、他我に固有の経験を、根源的かつ内的に直観することはできないことを示すものに他ならないのです。(ジャック・デリダ『有限責任会社Ⅱ』より)

真面目にふざける

2006年05月21日 | Weblog
「結局、オースティンが変則、例外、「不真面目」、引用(舞台の上で、詩の中で、あるいは独白の中で)として排除したものは、それがなければ「成功した」遂行的発言すら存在しない一般的引用可能性──むしろ一般的反復可能性──の限定された変容ではないのか。それゆえ──逆説的だが不可逆的な帰結として──成功した遂行的発言は、必然的に「不純な」遂行的発言なのである」(ジャック・デリダ『有限責任会社abc...』(法政大学出版局)より)

 結局、池田孔介氏が「童話/日記2006-05-12」で「不真面目」として排除したものは、それがなければ「美術史」すら存在しない一般的引用可能性──むしろ一般的反復可能性──の限定された変容ではないのか。それゆえ──逆説的だが不可逆的な帰結として──「真面目に真面目」な事は、必然的に「ふざけた」事なのである。

グーグルの書籍検索サービスとパラダイムシフト

2006年05月14日 | Weblog
 佐伯剛氏(『風の旅人』誌編集長)のブログはいつ読んでも批評的に最悪だが、しかしそう言って済ますことのできない場合もある。たとえば「グーグルの書籍検索サービスとパラダイムシフト」(2006-05-13)と題されたエントリーで佐伯氏は、日本でも年内に開始されるとアナウンスされたグーグルの書籍検索サービスについて、「大歓迎である」とコメントしている。確かに「質」で勝負しようとする中小の出版社にとっては朗報だろうし、また読むべき本を探している消費者や研究者にとっても有益なシステムである。しかしだからといって諸手を挙げて「大歓迎」してしまってよいのだろうか。それによる「パラダイムシフト」が、果たして出版界の現状改革に止まらず、書物の「質」を規定する条件(つまりディシプリン)にまで及ぶということはないのだろうか。出版社がグーグルこの申し出を受ける(グーグルのシステムの中に入る)ということは、今後、出版社はその検索エンジンのシステムに合わせた内容(テクスト)の書籍を刊行せざるを得ない、ということでもある。いまやどんなネットビジネスも、グーグルのウェブ検索エンジンの攻略なくしてはありえない。それと同じことが、これから出版される本の内部でおこる。そこに記されたすべてのテクストは、グーグルの書籍検索エンジンによる「査定」を受け、キーワードごとにランキングされ、そしてデータベース化される。著者はそのことを意識せねばならない。その新しい「基準」に基づいて「思考」されたテクストでなければ、もはや存在価値はないからだ。佐伯氏のように古臭い人間主義を貫いているだけでは、この恐るべきパラダイムシフトに抵抗することなどできはしないだろう。

永瀬恭一氏の違和感について その3

2006年05月12日 | Weblog
>それは作品の射程距離を「今」や「明日」などという刹那的な短さにおかずに、100年とか、500年とかの単位で考えることに他ならない。狩野永徳の政治性やジオットの経済的野心にあった「戦略」が消え去っても、彼等の作品のバリューは維持されている。「美術市場」に向けてではなく「美術(史)」に向けて製作をしてゆく、それ以外に、作品の価値を維持向上させる手段などありはしない。

 芸術作品の普遍性とは、「今」や「明日」どころか「一瞬」のなかに永遠を見ることに他ならない。そこでは100年とか500年とかの「単位」など何の意味ももたない。そもそも作品の価値を未来に向けて投企することなどできない。永瀬氏の考えには、池田孔介氏の言葉を借りれば、「私にはこれしかできません」というような未遂性なしの貧しさがあからさまに出ている。つまり未来(もしくは過去)を既にできている「既遂状態」としてのみ考えてしまっているのだ。そんな「他者」のいない「美術(史)」に向けて製作をしても仕方あるまい。(続く)

永瀬恭一氏の違和感について その2

2006年05月11日 | Weblog
>村上氏自身が、自らの作品価格の下落を予感しているからこそ、手っ取り早く現金化できるものを引出した、と考えなければ今回の「和解」は理解できない。普通に考えて、話題作り、という観点からも、自らの正統性を完全に表明するためにも、この裁判は最後まで争われることが必要なはずだが、それが「和解」した、というのは純粋に金銭だけが問題になっていた事になる。

 いかにその和解金が高額であったとしても、おそらく村上氏の作品の数点分の金額でしかないと思われる。村上氏の作品は24時間の交代制で製作され続け、完成したそばから梱包され、海外へ輸出されていく。70人からのスタッフを雇う人件費だけを考えても、その販売額がどれほどのものなのか、サラリーマン画家の永瀬氏にはおよそ想像できないスケールであろう。村上氏には、和解金欲しさに裁判などやる必要はないし、そんな暇もない。また今さら話題作りなどするまでもなく有名である。では何が目的なのか。村上氏はこうコメントしている。
 
>日本ではアートの社会的評価や理解度は低いままです。功利主義で、文化発展への尊敬の念乏しき,文化の民意が著しく低い国。それが日本です。

 芸術文化の歴史は剽窃の歴史であるが、しかしそれも尊敬の念があってのことである。村上氏は、ミッキーマウスやドラえもんを、作者に対する尊敬の念をもって借用した。そしてそこから何かを学んだ。だがナルミヤのデザイナーには(そして今の日本には)それがなく、アートから何かを学ぼうとして真似していない、と言って怒っているわけだ。(続く)

永瀬恭一氏の違和感について その1

2006年05月10日 | Weblog
 あの永瀬恭一氏が、いわゆる「村上隆問題」への違和感を表明している。私は、発表された永瀬氏の意見(2006-05-08)に目を通し、それこそ「何か変だ」と感じた。

>例えば東氏は、今回の村上氏のメーカーとの和解以降、自分が所有している「DOB君」の作品から「オーラ」が消えているという。ここで言われた「オーラ」は、作品それ自体から発しているのではなく、村上氏の組み上げた「文脈」から発している。

 ここで永瀬氏は、オーラ(つまりベンヤミンのいうアウラ)は作品それ自体から発するものだと思い込んでいるようだが、最低限の「常識」として、オーラというのは作品それ自体に宿るわけではない。第一に「礼拝的価値」におけるオーラは、作品が置かれた場所(礼拝堂など)から発する。そして第二に「展示的価値」におけるオーラは、作品を巡る文脈(コンテクスト)から発する。いまの永瀬氏には「作品に基づく価値判断」はあっても、「常識に基づく価値判断」は無いようだ。そんな人に「オーラが消えるプロセス」の話をしても、また自爆するだけだろう。(続く)

備忘録2

2006年05月09日 | Weblog
「昨今のエンターテイメントとなんら代わり映えしないほど社会のレベルに同調した形で薄められた表現。アートがすでに政治、経済の中で簡単に盗用され、消費されてしまう現代の消費資本主義のなかでは、内的なローカリズムからなるマイノリティ・カルチャーに、アートのオーセンティック(根源的)なサブライム(尊厳)を見ることができる」(川俣正 『先端芸術宣言!』(岩波書店)より)

「村上隆という作家を、僕は尊敬しています。それは、彼が「日本のオタクポップを代表する新しい美術家」云々だからではなく(あまりそうは思いません、というより、そんなキャッチコピーを真剣に信じているのは少数でしょう)、むしろ彼の活動がきわめてコンセプチュアルだからです。村上氏の戦略は、美術と市場という二つの世界の差異に基づいたものであり、現代美術のゲームに対する強い危機意識のうえに立てられています」(東浩紀ブログ『渦状言論』より)

「日本ではアートの社会的評価や理解度は低いままです。功利主義で、文化発展への尊敬の念乏しき,文化の民意が著しく低い国。それが日本です」(村上隆の和解コメントより)

池田のアニキと『国家の品格』

2006年05月08日 | Weblog
 池田信夫氏による『国家の品格』への批判が止まらない。池田のアニキほどの人がどうしてこんなに低級な議論を続けているのだろうか。何度でも繰り返すが『国家の品格』は漫画であり、その限りにおいて読まれるべきだし、また実際そう読まれているはずだ(まさか違うのか?)。『少年ジャンプ』や『コロコロコミック』の内容を「論理的にデタラメだ」といって怒ってみても「情緒的に大人気ない」だけだろう。それでも我慢ならないのであれば、たとえば『国家の品格の嘘』といったような暴露本をやはり新書で刊行し、同じ土俵で相撲を取ってみせるしかない。藤原正彦氏のふんどしで相撲が取れるのは池田のアニキしかいないし、あるいは『国家の品格』の半分も売れれば、いったいどれほどの印税が入ることか。

備忘録1

2006年05月08日 | Weblog
「ある関係性を表現過程の中に作為的、意識的に仕込むことはできない。何故なら、もし相互の了解の中でこれが成立するのであれば、本来の意味からずれ、予定調和の出来事として成立してしまう」(川俣正 『先端芸術宣言!』(岩波書店)より)

「しかし私は、自分の議論の数を十八に限らなくてはならない。この討論の規約の一つは(最終の審級においては、それは最も限定力の弱い規約だとは限らない、とSecは言っている)、この討論が、もし起こる=場をもつのなら、主に音声的なタイプの書記法、そしてより正確にはアルファベット・タイプの書記法(graphie)という境位において起こる=場をもつということである。これは、恣意的な部分をもっている。その恣意性の効果はこうである。私は、もはや十八文字あるいは十八発しか手元にもっておらず、それで済ませなければならない、ということ。何とつまらない=偶然的な(contingente)制限なのだ、とひとは言うだろう。何と作為的で外的な制限なのだろう、と。今度は、テクストのなかにこれらの縁を統合し、これらの枠を考慮に入れていくのだろうか? これらのすべての寄生物=雑音(parasites)を、この言説のエコノミーのなかに体内化していくのだろうか? 計算のなかに、紙の面積や使える時間の内容等を統合していくのだろうか? そして、なぜタイプライターの残量ではいけないのか? どうしていけないのだろうか? これこそが問いなのである」(ジャック・デリダ『有限責任会社abc...』(法政大学出版局)より)

人間文化の最後の闘い

2006年05月01日 | Weblog
>こうなってしまった、こうでしかあり得ないという既遂性と、こうでもあり得たし、ああでもあり得た、という未遂性とが交錯する場において、そのようなオーラが立ち現れることになるのかもしれない。逆に言うと現代美術のつまらなさって、一方で「私にはこれしかできません」というように未遂性なしの貧しさがあからさまに出ている場合で、他方「とりあえずこういうものを作ってみました」というように決定的な既遂性がそもそもない場合かという、そのどちらかがほとんどであるという事に因るのではないか。(池田孔介 April 26 (Wed))

 交換不可能な可能性(既遂性)と交換可能な可能性(未遂性)の関係から今日の現代美術の「つまらなさ(オーラの不在)」を説明しようと試みている池田孔介氏だが、どうやら彼には今日のアーティストたちが「国際展」で何をしているのか、まったく解っていないらしい。「未遂性なしの貧しさ」や「既遂性がそもそもない」という資本主義に去勢された無様な現代美術はあくまでも「アートフェア」に溢れているのであり、対して「国際展」に参加してくるアーティスト達は、むしろ反資本主義の立場を限りなく強めている。いま、「国際展」で行われているのは、壮絶な闘いの果てに殉教していった思想家や文学者達の遺志を受け継いだ、人間文化の最後の闘いである。私(NT-X)もこれからこの闘いに参加するつもりだ。(続く)