SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

養老天命反転地21

2008年09月23日 | Weblog
>アラカワの最近の言い方を用いると、それは「知覚が降り立つ」ことであり(cf.『養老天命反転地』の趣旨説明等)、そこで世界の知覚、世界の存在は諸物から発現せず、完全に人工的に構築された(彼の頭の中の)幾何学的風景を通じて天から地に降りてくる。(樫村晴香「アトリエの毛沢東」より抜粋)

「ペーパー・アーキテクト」という建築用語があるが、これは実現不可能な「紙」の建築のことであり、要するに「頭の中だけの建築設計」のことである。この謎のドローイング(写真)は、その「ペーパー・アーキテクト」を代表する建築家ダニエル・リベスキンドの作品である。まさしく「完全に人工的に構築された(彼の頭の中の)幾何学的風景」だ。リベスキンドの「ペーパー・アーキテクト」について調査を開始している。何か分かったら報告したい。

養老天命反転地21

2008年09月20日 | Weblog
>こうしてやっと、あなたの問いに戻ることになります。書き込むための〈支持体〉である紙は、反響します―――書くためのシステムがどのようなものであれ、その音声学的なモチーフがつねに響いているのです。紙はたんなる表面のようにみえますが、その下にじつはある容積を、襞をもっているのです。紙の背後にある迷宮の壁面は、みずから語る声や唄の反響を響かせるのです。紙には届く範囲(ポルテ)があり、紙で作ったメガホン(ポルト・ヴォワ)で声の届く範囲(ポルテ)があるからです(この紙のもつ射程(ポルテ)については、のちに考察する必要があるでしょう)。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻333ページより抜粋)

幸せな犬と人間

2008年09月14日 | Weblog
「静かな苦悩にひたされているという感覚」や「沈鬱で悲劇的なムード」について考えていたところ、WiredVisionに『「人間を善人にする薬物」:道徳心は薬で強化できるか』という記事が掲載された。この記事では最後に「人を思いやる気持ちを高める薬物があれば、みなさんは服用するだろうか?」と尋ねているが、現代社会に生きる私たちは、そんなこといまさら言われるまでもなく「記号的なレベル」では、そうした非倫理的な薬物をすでに大量に服用しているのである。「環境管理型権力はかなりの程度まで規律訓練型権力として働いている」ということを指摘する東浩紀氏は、また「萌え要素」の動きについて「じつはプロザックや向精神薬とあまり変わらない」と書いている(『動物化するポストモダン』139ページ)。ところでプロザックは人間だけでなく動物にも効くらしい。

>このごろの家庭は、夫も妻も外へ働きに出るのがふつうになって、一日中、家に「ひとり」で残される犬は、退屈で退屈で、ストレスがたまりにたまる。その結果、あたりかまわずなめまわす、自分の尻尾を千切れるくらいに噛みつづけたり執拗に追っかけまわしたりする、夜も昼もうなることをやめない、などの強迫性の症状が目立って多くなった。そこで、緑と白のカプセルのプロザックを、一日一錠与えたところ、人間の場合と同じように、3週間ぐらいしたらすっかりおとなしくなって、幸せな犬になるのだという。(「抗鬱薬をめぐる躁と鬱」より抜粋)

 なにしろ愛犬に処方されたプロザックを飼い主が横取りして服用しているというのだから事態は深刻だが、なにもここで「人間と動物は同じだ」などと言いたいわけではない。鬱から精神をプロテクト(守る)するプロザックは、製薬会社のプロダクト(製品)であり、プロテーズ(人工的な補足)された脆い媒体として、いつか何らかの理由により「供給停止」になるかもしれないのである。人間はそのことを暗に知っているが、「幸せな犬」には知る由も無いことである。

養老天命反転地20

2008年09月09日 | Weblog
 この藝大モギケン教室での荒川修作の話を聴いていると「静かな苦悩にひたされているという感覚」がいきなり高まってくる。ここで教室は、東浩紀氏の言葉を借りれば「沈鬱で悲劇的なムード」に覆われている。東氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』の第二章B8(208ページ)で「永遠の世界」について書いているが、これを読んで思うことは、荒川もまた「死なない」という「設定」をおこなったのであり、その意味ではなく機能について考えなければならないということだ。では荒川のこの「設定」に隠されたアクロバティックな戦略とはどのようなものだろうか? 環境分析的に読解していきたい。

図書館ホームレス問題

2008年09月09日 | Weblog
 ホームレスは全てを失った人達だ。しかし、ひとつだけ失っていないものがある。それは記憶であり、その記憶のうちにかろうじて繋ぎ止められている人間の尊厳である。もちろんホームレスが駅や公園や図書館に集まるのも他に行く場所がないからだろうが、それだけではない。駅は彼らの故郷に繋がった場所であり、公園や図書館は希望や目的を持っていた頃の自分に繋がった場所である。現実にはその繋がりはすでに断たれているにせよ、記憶のうちでは繋がっているのである。この記憶への配慮なくしては、どんなホームレス対策も「人間の尊厳」を無視したものになるだろう。