SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

人間の意図をこえたもの その1

2010年04月25日 | Weblog
>私たちがビールを飲みながらしゃべつているあいだ、太陽は前方左から右に移動していて、ある瞬間に気がつくと池一面が太陽の反射で金色に輝いていた。〔...〕雨が続いた10月の久しぶりの晴天の、暖かく穏やかで風がない日の午後に、池のほとりに腰掛けてビールを飲みながら、池一面が太陽の光で金色に輝くのを見ていたら、「このため本を読んだりあれこれいろいろと考えたりしているんじゃないか」と思った。大げさに言うと「真理が与えられる」ということだ。人によっては「至福」と言うかもしれない。(保坂和志著「人間の意図をこえたもの」(前編)より抜粋)

 俳優のショーン・ペンが作った短編映画「USA」では、WTCの倒壊によって、それまで日陰だったアパートに日が差し、枯れていた植物が息を吹き返す。ショーン・ペンはこの数年前にテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』に出演しているが、このガダルカナル島の激戦を描いた映画にも、何気に似たようなシーンがある。日本軍による最初の攻撃を受けるシーンでは、最前のふたりの兵士が突然撃たれて倒れる。このとき、雲の間から日が急に差し始め、草に覆われた丘の一面が輝くのである。ショーン・ペン演じる兵士は、ハッとした表情でその光景に気をとられる。そして多くの死傷者を出す激しい戦闘が開始されるのだ......。深々と「人間の意図をこえたもの」を扱ったこのマリックの映画に比べれば、イーストウッドの硫黄島二部作など児戯に等しいだろう。冒頭の「自然には復讐の力があるのか?」という問いかけも考えさせられる。(続く)

デカルトの「カミソリ」理論

2010年04月18日 | Weblog
「たとえばヨーロッパ史で長い間議論がされてきた「17世紀の危機」という危機論争です。17世紀のヨーロッパは、非常に気温が低かったのです。いまよりも2度か3度低かっただろうと......。小氷期という時代で、オランダでは運河が凍って、人々がスケートをやっていたらしいのです。実は、ヴェネツィアでもスケートをやっている絵があります。それほど寒かったというのですが、17世紀は単に気温が低いだけではなく、実際に立証されている限りでも農作物の不作がかなりの件数にのぼっています。しかも17世紀は、戦争が非常に多かった世紀なんです。30年戦争に始まって、最後はスペイン継承戦争まで、まさに戦争だらけの時代でした。ルイ14世が仕掛けた戦争が多いという事情もあるのですが、全体に冷たい時代だったんですね。デカルトの哲学ができたのはこの時代です。デカルトがそのことを意識していたかに関わらず、やはり危機に満ちた17世紀の中でしか成立しえない、戦闘的で挑発的な「カミソリ」理論だった。ところが、18世紀になると気温が上がります。確かに人口は増え、その結果として、デカルト主義は瞬く間に、有用で役立つ穏当な理論として、自然科学と社会科学全体に広がりました。17世紀と18世紀は、その意味でコントラストが激しいのですが、歴史を見ると非常によく似たケースは数多くあります」(『巨大災害の時代を生き抜く』〔ウェッジ選書〕145ページより樺山紘一氏の発言を抜粋)

盛り上がっているのを描いてはおしまいだ

2010年04月11日 | Weblog
「わしが、もし、《盛り上げた》のを描いたら、おしまいだ。君、お解かりになるか」(ジョアキム・ギャスケ著『セザンヌとの対話』より)

>けれども多少でも絵を―もしくは多少じゃなくて10年でも20年でも―描いていると、こういうセザンヌの言葉がだんだんわかったような気がしてくる。で、まあこの場合日本語ですけれども、この悪いとされている翻訳をほとんどの美大生が買って読んで意味が分からないまま、時々思い出して「盛り上げたのを描いたら、キミ、おしまいだよ」なんて言ってるんですね。分かったような顔してね。でも単純に言語としてみたら、まったく、わけの分からない言葉です。「盛り上がっているのを描いてはおしまいだ」。(『表象』01号54ページより岡崎乾二郎の発言を抜粋)