SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

何が“現代”を殺したのか?

2007年06月28日 | Weblog
>何が“現代”を殺したのか? もう少し丁寧に言うと、何が“現代”の精神を忘れさせたのか?(猫の保坂和志「いまや忘れられつつある“現代”」より抜粋)

 私の調査によれば、日本の「現代美術」を殺したのは、おそらく80年代の西武セゾン文化である。それまでハードな前衛芸術だった「現代美術」は、80年代に西武セゾンの文化戦略によって「骨抜き」され、以降、現在に至るソフトな「現代アート」へと変貌した。当時、セゾン・グループの社員だった猫の保坂氏は、そこで運営していたカルチャースクールで、結果的に「前衛の骨抜き」に手を貸している。まさかその作業が「大衆消費社会を批判する前衛文化を、大衆消費社会の担い手である流通産業が積極的にフィーチャーしてみせる」という「生ける逆説」であることに気が付かなかったのだろう。その「生ける逆説」の構造内部では、猫の保坂氏が“現代”の精神を真面目に真剣に伝道しようとすればするほど、逆にその“現代”の精神は死んでゆくことになる。はっきり言ってしまったほうがいいかもしれない。何が“現代”を殺したのか? 殺したのは猫の保坂氏、あんただ。あんたが“現代”を殺した。すくなくともその殺害に荷担したんじゃないのか。どうなんだ?(続く)。

参考資料【保坂和志】(ほさか かずし、1956年10月15日 - )は、山梨県生まれの小説家。栄光学園高校、早稲田大学政治経済学部卒業。大学卒業後、西武百貨店に勤務しカルチャーセンターで哲学・思想のワークショップを企画する。1990年に『プレーンソング』でデビュー。1993年に会社を退職する。何も起こらない日常を書く小説を得意とし、小津安二郎の映画のような印象を受ける。また猫に対しての愛着が感じられる作品が多い。(フリー百科事典ウィキペディアより抜粋)

メディア変換の技法

2007年06月25日 | Weblog
>二次創作とは、ここでの枠組みで言えば、物語志向メディアが供給する作品を、コミュニケーション志向メディアの支持材として再利用するメディア変換の技法なのである。(東浩紀『文学環境論集L』エッセイ編P49より抜粋)

 柄谷行人の名著『日本近代文学の起源』同様、すべての美術系の学徒は東浩紀氏の『文学環境論集L』を読むべきである。ただし、そのいかにも納得しやすい言葉の要約の背後にあるものこそを読まなければならない。その解りやすさを「罠」だと感じ、至る「納得」の裏面に回って考えてみることが大事なのである。それが出来ない人は、いつまでたっても(それこそ40歳になっても)あらゆる意味で「停滞」し続けるだけだろう(もう誰とは言うまい)。
 
 二次創作について書かれた、たったこれだけのフレーズのなかに、現代アート理論のひとつの核心が込められている。たとえば川俣正氏の仕事について、これ以上の説明の要約ができるだろうか。川俣氏のインスタレーションは、それ自体が「作品」なのではない。その木材のインスタレーションが寄生している建築物こそが「物語志向メディアが供給する作品」と目されるのである。典型的なコミュニケーション志向のアーティストである川俣氏の仕事は、それを物語(コンテンツ)志向の発想で「鑑賞」している限り理解することはできない。コミュニケーション志向の発想でそれに「参加」したときに、これまで作品だと思われていた一次的なものと、展示環境だと思われていた二次的なものとの関係が逆転(メディア変換)し、その「支持材としての再利用」が可能となるのである。ぶっちゃけ、川俣氏の仕事はそういう意味で、すべて二次創作として行なわれていると言っても過言ではないだろう。(掲載写真は1989年トロントでのインスタレーション)

レディ・イン・ザ・ウォーター2(資料)

2007年06月12日 | Weblog
 以下、ジャック・デリダの著『盲者の記憶』(みすず書房)からの抜粋である(というか実際はここからコピペしただけだが)。ナイト・シャマランの映画『レディ・イン・ザ・ウォーター』との関係については次回に説明する。まずはこの何かしら感動的なデリダの文章を読んでほしい。感じるものがあるだろ?

――哀願と慨嘆、 それもまた眼の経験だ。 私に涙のことを語るつもりなのか?

――そう、もっとあとで。涙も眼についてなにごとかを語るが、それはもはや視覚とは無縁だから。もっとも、視覚をヴェールのように覆い隠すことで、涙が視覚を開示するということもありうる。……

――だが、涙が目に到来するものであり、そしてそのとき視界を覆いうるものであるならば、涙こそがおそらく、この経験の流れのさなかで、この水流のなかで、目というもののある本質を、いずれにせよ人間の目の、聖なる寓意の人間―神学的空間において理解された目の本質を啓示するのである。根底においては、目の根底では、目の用途は見ることではなく泣くことだということになるだろう。眼差しがそれを覆蔵している忘却の外へと涙が迸らせるもの。それこそはアレーテイアに、このようにして涙がその至上の使命を啓示する目の真理にほかならないことになるだろう。……

――あらゆる動物の目が視覚へと用途づけられており、そしておそらくはそのことによって、理性的動物の観察的知へと用途づけられているとしても、人間だけが、見ることと知ることのかなたに行くことを知っている。というのも、ただ人間だけが泣くことを知っているのだから。……彼だけがそれを見ることを知っている、彼、すなわち人間だけが、それ、すなわち、涙こそが目の本質であり、視覚ではないということを。……

――マーヴェルは知っていると信じていたのだ、視力を失ったからといって、人間は目を失うわけではないと。それどころか、人間は、そのとき、初めて目を思考し始める。任意の動物の目ではない、彼自身の目を。見ることと泣くことに間に、彼は差異を垣間見る。そしてその差異を、記憶に保持する。そしてそれが涙のヴェールなのだ、ついに、それも「同じ目」で、涙が見るにいたるまで。…

――見る涙……。あなたは信じているのか?

――わからない。信じなくてはならないのだ。

茂木さんOKです!

2007年06月09日 | Weblog
「すべては脳から始まる」のか、それとも「すべてはラカンのおかげ」なのか。期待された茂木健一郎と斎藤環の往復書簡が開始された。最悪の事態もありうる対話である。斎藤は仲介者から「茂木さんOKです!」といきなり聞かされて、しょうしょう慌てたという。たしかにfairness(公平、公正)な茂木の決断には違いない。だが、そのあまりにもストレートな「OK」のうちに、いかほどの逡巡や葛藤があったというのだろうか。最近の茂木は何というか、自分を切っちゃってるというか、もう投げちゃってるようなところがある。もしかしたら茂木は斎藤に、自分を終わらせてくれ、楽にしてくれ、と望んでいるのかもしれない。受けて斎藤は、生まれてくる時代を間違った茂木を、モーツァルトやレオナルドの時代に孵してやるべきだろう。あるいはナイト・シャマランの映画『レディ・イン・ザ・ウォーター』のラスト・シーンのように。

現代アートとポストモダン 第8回

2007年06月03日 | Weblog
 日本のモータースポーツ文化の振興を遅らせた最大の要因は暴走族の存在である。現代アートに関するこの連載でなぜ暴走族について書くのかといえば、まず第一に、彼らの乗る違法改造車いわゆる「族車」が、何故あれほどの悪趣味を極めなければならなかったか? ということに興味があるからだ。改造のお手本はワークス・カーである。だから本来はすべて速く走るための改造なのである。しかし族車は、逆に遅く走るためにこそ改造をしている。少なくとも70年代の族車は、まだレーシング・カーとしての実用的な機能美を保っていた。しかし暴走族の全盛期を過ぎた80年代以降の族車になるとそうした実用性のほとんどを失い、機能から切り離された美だけが醜悪な進化(というか退化)を遂げることとなる。いきおい改造すればするほどその車は走らなくなり、最終的にはハリボテのオブジェとして動かせなくなる。かつては豊かさの象徴であり技術的進歩の模範でもあった自動車というプロダクトを、あそこまで徹底的に破壊してしまおうとするその反時代的な想像力の有様には、何事かのリアリティがある。掲載写真は、郊外の空き地で朽ち果てた族車の姿である。(続く)